2010年12月29日水曜日

リトリート

 
先日、リトリートについて質問を受けました。
今年から始めた古代史ツアーで、
熊野、出羽、戸隠などへ行く予定があるかどうかということですが
結論を言うと、その3か所について企画する予定は全くありません。
理由については書きませんが、将来、気が変わることもないと思います。
古代史リトリートだけでなくマスタークラスの合宿でも同様です。
場所的には、いろいろ興味深いとは思いますが。。。
 

出雲国風土記

 
夕べは出雲国風土記(「神典」収録)を読んでいました。
ほぼ完本として残っている唯一の風土記として
古来より、広く知られていますが、
編纂者が出雲国造である出雲大社の宮司であることなど、
成立に関わる背景も、他とはやや異なっています。
 
記紀には登場しない国引き神話等々、
出雲国風土記独特の神話などが、興味深いところです。
興味のある方は、古事記と出雲国風土記で
大国主神がどのように扱われているか
その相違点を整理されてみてください。
きっといろいろなことに気付くはずです。
 

2010年12月28日火曜日

カラヤンと第九

   
学生の頃、
カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の
第九合唱付のレコードを買いました。
ともかく早く聴きたくて、慌てたために
針を置くとき、盤に傷をつけてしまいました。
一瞬にして、力が抜け、落ち込みましたが
その日、仕方なく、2枚目を買いました。。。
 
CDとレコードでは音域の再現性が違うと聞きましたが
一度、聴き比べてみたいものです。
 

第九合唱付

 
  
毎年クリスマス前後に、
交響曲第9番ニ短調『合唱付き』を鑑賞に行きます。
今年は、ピッツェッティの歌劇「フェドーラ」など、
ミラノ・スカラ座などで活躍するスペイン出身のオペラ指揮者
エンリケ・マッツォーラ氏の指揮でした。
ついファッションに眼がゆくほどお洒落な方でしたが
実に伸びやかで、個性的な、素晴らしい指揮でした。
 
この曲を作った時、ベートーベンは
既に、耳がほとんど聞こえなかったそうです。
その辺の模様は、映画「敬愛なるベートーヴェン」をご覧下さい。
もちろんフィクションですが、すごくよくできた作品です。
 

2010年12月24日金曜日

2010年12月23日木曜日

やまと

 
「やまとは 国のまほろば 
 たたなづく 青垣 
 山隠(やまこも)れる やまとしうるはし」
ヤマトタケルノミコト
 
来年は「やまと」をテーマにいろいろ書いてゆきたいと思います。
大和とは「大いなる和(魂)」に通ずるものと思います。
なぜなら、古代大和の中心たる大神神社も、
その本家である出雲の「出雲国造神賀詞」では、
御祭神を大穴持命こと大国主神の和魂(にぎみたま)としていますので。
 
前回の大和リトリートでは、
大和の特殊性についていろいろご説明しました。
歴史を学べば、あの時代から、
文字通り「大いなる和」の国を志向していたことが窺えます。
この和魂の志こそ、時代、民族、国境、宗教を越えて
広く人類に求められているものではないでしょうか。
 

2010年12月21日火曜日

サマディ

 
サマディには、幾多の階梯があります。
例えば、歓喜のサマディですが、これは実に鮮烈な体験です。
 
セックスやランナーズハイのような脳内麻薬系のエクスタシー感覚を
風による海面の波立ちに喩えますと
この歓喜のサマディは、それこそ深海から空に突き上がってゆく様な
存在の根底から一気に湧き上がるような鮮烈な歓喜なのです。
 
私は自分の障害を克服する為にヨーガをはじめ
それこそ生死の境ギリギリの修行をしてきました。
 
そのため、ヨーガをやっていて楽しかったという思い出よりも
つらい、きつい、という大変だった思いが強かったのですが
この歓喜のサマディを味わった時には
「生きていてよかった」
「生まれてきてよかった」と
本当に心の底から実感しました。
 
文字通り生涯初の感動的な体験でした。
 
そこで体験する光の洪水は、まるで滝壺にいるような状態で
ともかく鮮烈で、力強く、清浄さと
言葉にはできない美しさに満ち溢れていました。
 
これはサマディの階梯では初歩のレベルなのですが
ヨーガを志す方には、ぜひ味わって頂きたいと思います。
人生観そのものが根底から変わることでしょう。
 
すでに何人もの方々に体験して頂きましたが
共通するのは、一様に終わってから眼に涙を浮かべ
言葉を失ってしまうことです。
その余韻にいつまでも浸っていたいという感覚なのです。
 
ヨーガのサマディを体験するには
いくつかのハードルがあります。
 
それは、依存心をもたないことと「あるがまま」に在ることです。
つまり自然無為に近い状態になりませんと、サマディは訪れません。
ウパニシャッドの瞑想では、マントラ、呼吸法、アーサナ、観想等々は
すべて役立ちません。むしろ邪魔になります。
 
何もしないこと
つまり作為なく、自然に、あるがままに座れるかどうか
ここに、サマディの成否全てがかかっています。
 
つまり真のサマディは、極限状態で得られるものではないのです。
優しさと、穏やかさに包まれたごく自然な状況の中でこそ
体得できるものなのです。
 
ですから
クンバカで息を止めたりして酸欠状態を作り、幻覚を見て喜ぶような
いい加減な世界ではないのです。
 
観察から観照へ。
その意味を知ることが、サマディへの鍵なのです。
 

2010年12月20日月曜日

ヨーガスートラとは


ヨーガスートラは
ダイエットスートラでも体操スートラでもありません。
 
アーサナで汗を流して気持がいいというのも
ウェストが3センチ細くなって喜ぶのも
ヨーガの効果として、大変結構なことですが
それはパタンジャリーの本意ではなかったと思います。
 
ヨーガスートラを書いたパタンジャリーは
読者に、サマディを体得して欲しいと願っていたはずです。
 
ヤマ・ニヤマへについて
パタンジャリーはヨーガのメインには据えておりませんし
また信仰を強調することで宗教化してゆくのも望んではいません。
 
ヨーガスートラのヨーガは
一般にラージャ・ヨーガといわれていますが
その主たる目的は
「ウパニシャッドのサマディ体得」への準備、
この一点に尽きます。
 
それはヨーガスートラを暗記し、言葉の上で議論することでは
到底得られない境地です。

2010年12月17日金曜日

必要な文献


密教ヨーガだけに取り組むのならば
ウパニシャッドもヨーガスートラも深く学ぶ必要はないでしょう。
でもサマディを得たいと望まれるのならば
少なくともカタ・ウパニシャッドとヨーガスートラは
しっかりと読んでおくべきだと思います。
 
さらに、学習が深まれば、必要に応じて
ブリハッド、チャーンドギヤ、マイトゥーリ、マーンドゥーキヤ
の各ウパニシャッドまでは把握しておく方がいいでしょう。
 
しかしながら、読むといっても、
ただ個別に字面を追うのではなく
各ウパニシャッドやヨーガスートラと関連付けながら、
頭の中できちんと整理し、全体図を意識しつつ、
体系的に理解すべきです。

2010年12月15日水曜日

アヴェマリア

サラ・ブライトマンです。先日の東京公演の最後もこの曲でした。


再生後に画面をクリックするとワイド画面になります。

カタ・ウパニシャッド


カタ・ウパニシャッドは極めて重要なウパニシャッドです。
その為か、しばしばヨーガ関連本にその一部が引用されています。

「アートマンを車主と知れ。肉体を車、覚を御者、意を手綱と心得よ。
賢者たちは、もろもろの知覚器官を馬とよび、
諸知覚に対応する諸対象を道路とよんでいる。」

「五つの知覚器官(眼耳鼻舌身)が意(思考器官)とともに静止し、
さらに覚(理性、高次の精神的な意識器官)も働かなくなった時、
人はこれを至上の境地という。
ところで、このように心の諸器官を固く抑止することを、
人びとはヨーガと見なす」(以上 佐保田鶴治博士訳)

確かにヨーガの定義を知る上ではとても重要な部分だとは思いますが
巷間では、なぜか他の部分についてあまり言及されていないようです。

カタ・ウパニシャッドとは一体どのような文献なのでしょうか? 
何のために書かれたものなのでしょうか?

ある翻訳家はカタ・ウパニシャッドに
「死神の秘教」というサブタイトルをつけています。
それはこの文献が、死神ヤマと青年ナチケータスの対話から
構成されているものだからですが、
なぜヤマが主人公なのかといえば
このウパニシャッドが「死を超える」ことを目的としているからです。

「ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、
ヨーガの全規定を得て、ブラフマンに到達し、穢れを離れ、
死を超越した者になった。
まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も
(死を超越した者となるのである)」(中央公論社「世界の名著」)

これはカタ・ウパニシャッドの最後の部分に書かれています。
ヨーガの目指す境地とは、まさにそこにあるのです。
そしてその前提条件が、ヨーガスートラの説く真我独存なのです。

この「ヨーガの全規定を得て、ブラフマンに到達し」ですが
カタ・ウパニシャッドには、その方法が具体的に書かれています。

ウパニシャッドの歴史

ヨーガを練習する目的は、人によって様々だと思います。
ダイエットでも健康増進でも、正しく行なうならば
ヨーガは多くの効果を与えてくれることでしょう。

それについて是非を問う気はありませんが
もしもヨーガの奥深さに気づき、その程度では満足できないという方は
ヨーガスートラとウパニシャッドを読まれるといいでしょう。

紀元400~450年頃に編纂されたヨーガスートラは
顕教ヨーガの基本書として世界的に広く知られています。
そしてサーンキャ・ヨーガ派の優れた成果として
時代を超えて、高い評価を得ています。

この一連のインド思想は、ヴェーダに始まります。
そして数百年間にわたって研究、検証された結果
カタ・ウパニシャッドに於いて一応の成熟をみるわけです。
そこに於けるヨーガの定義は、ヨーガスートラそのものであり
準備段階としての重要な役割を与えられています。

ヨーガスートラのゴールは
ウパニシャッドの理想に至る為のプロセスのひとつに過ぎないのです。
ですから、ウパニシャッドを読まずして
ヨーガの全体像を知ることはできない、といえます。

ヨーガの役割とは何か?
真我とは何か?
一体最後はどうなるのか?

ウパニシャッドとヨーガスートラの関わりについて研究することは
ヨーガを真に理解する上で不可欠だといってよいでしょう。
 
◇古典的ウパニシャッドについて

初期の散文ウパニシャッドの成立。(BC7~6世紀頃)
ブリハッド・アーラヌカヤ(世界と人間の創造神話)と
チャーンドーギヤ(五火二道説)が一番古く、続いて
アイタレーヤ、カウシータキ、タイティーリヤ。
そしてケーナ、イーシャーがいずれも仏教以前に成立。

古代中期の韻文ウパニシャッド。(BC4~3世紀頃)
カタ、ムンダカ、プラシナの各ウパニシャッドが成立。
哲学的で、また一神教的信仰やサーンキャ思想や
ヨーガについてもかなり具体的に触れている。

後期の散文ウパニシャッド。(BC1世紀頃)
先行するウパニシャッドの諸思想を継承しつつ、
それをサンキャやヴェーダーンタ等の学術的思想に
まとめようとする傾向が見られるようになる。
マイトラーヤナ(黒ヤジュル・ヴェーダ系)
マーンドゥーキヤ(アタルヴァ・ヴェーダ系)

2010年12月13日月曜日

釈迦VSイエス

学生の時に読みましたが、何とも凄い作品です。
光瀬龍のまさに渾身の作だと思います。
萩尾望都の漫画版もなかなかいい出来だと思いますが
やはり小説の方がいいですね。
プラトン、釈迦、阿修羅、イエス、ユダ、帝釈天などが、それぞれ
哲学的、宗教的なことを言いながら暴れまくります! 
キリスト教徒の方は気分を悪くするかもしれませんが。。。

運と縁

運がなければ、グルには会えません。
運があっても、縁がなければ、指導は受けられません。
あとは、正機と機根、そして霊統が必要になります。
正機とは、仏教語ですが、辞書によると
「仏の教化、救済を受ける条件を適切に備えていること」
機根とは、同じく
「仏の教えを聞いて、悟りを開くための基盤となる
衆生の宗教的性質、能力のこと」
つまり、ようやくのことでグルに出会っても
縁がなければ、傍らに座ることはできませんし
仮にその機会を得ても、正機がなければ同一化はできません。
そして、もし同一化できても、機根がなければ
その体験を自分のものにすることはできないでしょう。
さらに、霊統ですが
これは如何ともし難いものがあります。
私見ですが、この霊統は
受動態よりも能動態の時に問題になるものと考えます。

2010年12月11日土曜日

ヨハネの福音書

アマゾンで買ってしまいました。
クリスチャンでもないのに、
年末はキリスト教系のDVDばかり観ることになりそうです。
クリスマスは、毎年恒例の第九合唱付を鑑賞する予定。
今から楽しみです。

ニューシネマパラダイス

夕べ「ニューシネマパラダイス」を観ました。
噂には聞いていましたが、本当に素晴らしい映画でした。
もし20代とか30代で観ていたら、
また違った観方になると思いますが。
世界各国でいろんな賞を獲ったのも頷けます。

2010年12月7日火曜日

天地創造

こちらも子供の頃、銀座のテアトル東京で観たのが最初ですが
まずはスケールの大きさに圧倒されました。
CGのない時代ですから、相当な制作費がかかったことと思います。
巨匠ジョン・ヒューストン監督といえば、あの「風とライオン」をはじめ
「アフリカの女王」など名作をたくさん残していますが
この「天地創造」も、とてもよく出来た作品です。
旧約聖書の概略が飲み込めますので、興味のある方はどうぞ。

キングオブキングス


それともうひとつ。
イエスをテーマにした作品で忘れられないのは
この「キングオブキングス」です。
オーソン・ウェルズのナレーションも味わい深いですし
イエスの生涯を丁寧に描いています。
特に7000人のエキストラを使った「山上の垂訓」のシーンは
さすがハリウッドの大作という印象ですが
全体的には、綺麗に整った「聖書物語」という感じです。
「偉大なる生涯の物語」と続けてみると面白いと思います。

偉大なる生涯の物語

イエスの生涯といえば、何と言っても、まずこの作品でしょう。
(メルギブソンの「パッション」も観ましたが、あれはちょっと、、。)
小学生の時、今はなきテアトル東京の巨大スクリーンで
この3時間以上の大作を観ましたが、強烈な印象でした。
その後、3~4回は観たと思いますが
主演のマックス・フォン・シドーの存在感というか、凄いですよ。
彼はイングマール・ベルイマン監督の「第7の封印」にも主演していますが
あちらも最高です。(ただ現在手に入らないかも)

奇跡の丘

年末に観ようと思いDVDをたくさん買ってしまいました。
もっとも全部、これまでに何度か観た作品ですが。
この「奇跡の丘」は鬼才パゾリーニ監督の代表作の一つです。
イエスの生涯を、彼独特の視点から丁寧に描いています。
一説には、彼はクリスチャンではなかったとか。
でも台詞は、「マタイの福音書」に沿っています。
(イエスがあまりに早口なので、字幕を読むのに忙しいですが)
パゾリーニ監督の作品をはじめて観たのは18歳の時でした。
「アポロンの地獄」という作品ですが、これは衝撃的でしたね。
ギリシャ悲劇の「オイディプス王」の物語です。
パゾリーニ芸術の頂点の作品と言ってもいいかも知れません。
この後、彼の作品は全部観ましたが、段々息苦しくなってきました。
「テオレマ」辺りが許容の限界でした。。。

2010年12月5日日曜日

アイーダ

そういえば22歳の時に1ヶ月ほどヨーロッパを旅行したのですが
その時ローマのカラカラ遺跡跡の野外劇場で、オペラ「アイーダ」を観ました。
迫力もかなりのものでしたし、舞台演出にも圧倒されました。
あれが切っ掛けでオペラファンになりましたが、
30年以上経っても、あの時の「アイーダ」の思い出は色あせません!
多少無理をしても、かけがいのない人生のひと時を大事にしたいものです。

パッション

                                                サラ・ブライトマンが認めた才能です。
本当に、素晴らしい!まさに天才です。
透き通った透明な歌声と、タイトル通りのパッション
世界は広い、と心底思わせる逸材です。

ロータス8

今日は朝10時から夜8時まで
ロータス8のディーチャーストレーニングでした。
ヨーガスートラの「アーサナ」からウパニシャッド瞑想まで
10人の方々に、9時間がかりでレクチュアしました。
スポット的な講習なので、かなり手加減しましたが
通常味わえないような濃厚なヨーガ体験をして頂けたことと思います。

2010年12月2日木曜日

雪景色といえば-夕陽



段々と陽が落ちてゆきます。

雪景色はいえば-3



氷壁の外へでると、、そこはもちろん雪景色。
ともかく眩しくて、眩しくて。
眼が痛くなるほどでした。

雪景色と言えば-2


アルペンルート・雪の大谷ウォークです。(4/20)
http://www.alpen-route.com/
凡そ15メートルもあるという氷壁は本当に凄いです!

2010年12月1日水曜日

マントラと経典

「瞑想は言葉を反復することでも、
まぼろしを目のあたりにすることでも、
あるいは沈黙を香うことでもない。

数珠や経文は、精神の雑音を静めはしても、
結局のところ一種の自己催眠にすぎず、
催眠薬を口にするようなものである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』平河出版

マントラや読経は
特定の音程やリズムに集中することで、
心を一定の状態に誘導します。

言葉の意味が大事だという方もいますが
それは宗教的な作用に関わるものでしょう。

クリシュナムルティは、一種の自己催眠だと言っていますが
その通りだと思います。

なぜなら、その効果は、多少の余韻があったとしても
所詮は一時的なものにすぎないからです。

ヨーガスートラは、真我探求の素晴らしい手掛かりです。
その冒頭には、ヨーガの定義が述べられていますが
ヨーガスートラをひとつの理想とするならば
その定義を逸脱する技術は適切ではないといえます。

心の作用の止滅という目標を達成する為に
様々なマントラのチャンティングや、読経は
果たして必要なのでしょうか?

マントラや教典に依存することは
明らかに
ヨーガ本来の方向性に逆行しているといってよいでしょう。

2010年11月30日火曜日

雪景色と言えば

今年4月20日に行った黒部ダムからの景色です。
風があったので少し寒かったですが、何とも絶景でした。

プラーナヤーマ

世の中には、呼吸法といわれるものが数多くあります。
ラジオ体操の深呼吸から、ヒマラヤ(?)の秘伝の呼吸法まで様々ですが
その多くは外呼吸主体で形骸化しているように見受けられます。

もしもラジオ体操の深呼吸のようなレベルであれば
わざわざ時間と費用をかけて習う価値はないでしょう。

プラーナヤーマとは
単に吸ったり吐いたりする呼吸法を意味するものではありません。
佐保田先生も
「調気法プラーナヤーマは呼吸法と同一ではない。」
と述べておられます。(「ヨーガ根本経典」P111)

そしてプラーナとは
「身体のなかと外の世界にある生命のエネルギー」であり
「これをコントロールするのが調気である。」と言われています。
つまりプラーナヤーマとは
この内外のプラーナを制御するために開発された技法なのです。

古来プラーナ気とは、
狭義では体の中の五気のひとつとして知られてきました。

・プラーナ気
・サマーナ気
・アパーナ気
・ウダーナ気
・ヴィアーナ気

しかしながら元々は、
大自然に偏在する「気」を総称するものだったのです。
ですからプラーナヤーマは、身体内部もさることながら
自分の周囲の大気にも質的な変化を起こすものでなければなりません。

形骸化した呼吸法を操って自己満足に浸っているようでは
プラーナヤーマの本質は全くわからないでしょう。

つまり大気の気質の変化を客観的に確認できないようでは
真のプラーナヤーマとは言えないのです。

もちろん参加者の全員が例外なく体感できるとは言いませんが
少なくとも、7割以上の比率(人数)で体験させることができなければ
指導者自身のプラーナヤーマが出来ているとは言えないでしょう。
つまり指導者が、皆と一緒にプラーナヤーマを行なうということは
指導者自身のレベルが試されることになるのです。
ですから真剣勝負そのものだと言えます。
それはプラーナヤーマ以外の技法も同じです。

2010年11月28日日曜日

茶室への径

今年は紅葉が綺麗ですね。
こちらのモミジも凄かったですよ!
次は、雪景色かな。

ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガ

サッド・グルは個々の状態に応じて
臨機応変に多様なアプローチを採ることができます。
そのサッド・グルの役割を密教的な技術によって代用しようとするならば
相当高度で複雑なメニューが必要とされるでしょう。

でも、どんなに密教ヨーガの技術を突き詰めていったとしても
そこには自ずと限界があります。
なぜなら、密教ヨーガと顕教ヨーガの質的な違いがあるからです。

ですから、密教ヨーガにサッド・グルの変わりなど、とても勤まりません。
せいぜい顕教ヨーガの準備段階として有効なだけです。

それでも、何もしないよりはいいだろうということで
数百年にわたり、密教ヨーガの偉大な先人たちは
ありとあらゆる角度から、開発と検証を繰り返しつつ
「顕教ヨーガの準備段階」としての役割を果たそうとしてきました。

そしてその答えが
今日に伝わる密教ヨーガの技術体系だといってよいでしょう。

ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの冒頭に於いて
著者であるスヴァートマーラーマは、
自信と誇りを持って次のように語っています。

「「ハタ・ヨーガは、高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)

しかしながら、その先人たちの努力は新たな問題を引き起こしました。
それは本来手段としてあるべきものが目的と化してしまったことで
人々に誤解を与え、彼らを迷路に誘ってしまったのです。
この思い込みは、実に長い年月にわたっているため
解除するのは容易ではありません。

そこであえて困難を承知の上で、
私はこの一連の流れのスタートライン、つまり顕教ヨーガに立ち還り
ヨーガスートラに直接向かい合うことに致しました。

「瞑想を行うために意識的にある態度、姿勢をとれば
それは精神の慰みもの、玩具になってしまう。(中略)

光明の瞬間には意識はしぼみ去っている。

それゆえ光明を経験しようとする意識的努力も、
光明についての記憶も過去の出来事についての言葉を残すだけであり
しかも言葉は決して事実起こったことと同一ではない。

時間を超越した啓示の瞬間には、窮極なるものは直接現れる。

しかし窮極なるものは
いかなる表象(シンボル)も持たず人格でも神格でもない。」
『クリシュナムルティの瞑想録』P78 クリシュナムルティ著 平河出版

密教ヨーガは、確かに数多くの技術を提供しています。
その意味では、大変有意義なものであり、素晴らしいというべきでしょう。

ですが、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーが著しているように
本来ラージャ・ヨーガへの準備段階でありながら
現実には、それを達成するのに数十年を要するような状況になっています。

でもそれではヨーガの本命とも言われる凝念(ダーラナ)以降の修行に
人生の晩年のごく僅かな時間しか充てられません。

なにか本末転倒しているような印象を受けるのは私だけでしょうか。

2010年11月27日土曜日

サッド・グル

私は、ウパニシャッドの時代、
サッド・グルの存在が、
後世のアーサナ等の肉体的鍛錬に期待された要素を
充分に満たしていた、と考えています。
よって当時は、アーサナ等の練習に時間を費やすことなく
すぐにプラーナヤーマに進めたのでしょう。

つまり顕教ヨーガはサッド・グルによって
生命を吹き込まれるものなのです。

しかしサッド・グルがいつも近くにいるとは限りません。
むしろいない方の確率が遥かに高いでしょう。
その場合、何かがサッド・グルの代わりを務めなくてはなりません。
そこで、誰もがある程度の効果を得られる技術
つまり密教ヨーガが開発されたと考えられます。

いわゆる密教(タントラ)が5~6世紀に最終段階に入りながら
密教ヨーガの技法が14世紀頃に体系化されてくるというタイムラグも
その傍証として考えて良いでしょう。

ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガなどは
密教ヨーガの代表的流派として、まさにその目的を果たす為の技術ですが
これらの成就にはグルの指導が不可欠だといわれています。

私はサッド・グルとグルの違いを次のように定義しています。

サッド・グルは、その存在それ自体を以って、真摯な修行者を真理へと導く。
グルは、様々な技術の指導を通して、修行者に真理への道程を指し示す。

つまりラーマナ・マハーリシやクリシュナムルティのようなサッド・グルには
アーサナ等は無用の長物なのです。

なぜなら、彼らの一瞥を受けるだけで
修行者の心身そして真我に大きな変化が起こるからです。

それは彼らが到達した境涯の高さを暗示するものですが
同時に「顕教ヨーガとは何か?」を現しています。

対して、段階的にアーサナなどの技術を指導することで
弟子たちを導くのがグルの役目ですので、
サッド・グルとは質的に大きな隔たりがあります。

20世紀を代表する聖者の一人、
ラーマナ・マハーリシ師の見解は次の通りです。
(以下引用はすべて「あるがままに」ナチュラルスピリット刊)

「アーサナは安定した坐りをつくるためにある。
真我以外のどこに、
どのように揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?
これこそが真のアーサナである。」(P263)

彼は、
「ハタ・ヨーガをしないかぎり
心を静めることができない者たちにとって
それは役に立つといえよう。」(P263)
としてハタ・ヨーガが必須であるという考え方を否定しています。

ですから、彼の説くアーサナとは単なる身体の使い方ではなく
遥かに深い意味を持った「境涯」を意味しています。

「全世界がその上に揺るぎなくおさまっている土台(アーサナ)
それが真我である。
それは真の知識の空間、輝かしい基盤。
この知識から逸脱することのない安定を達成すること
それが、優れたサマーディのためのアーサナである。」(P263)

2010年11月26日金曜日

ハタ・ヨーガ・プラディーピガー

今日ヨーガというと、
肉体的鍛錬である程度の成果をあげてから
メディテーションへと進むように考えられていますが
これは多分に
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの記述による所が大きいと思います。
「ハタ・ヨーガは、
高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)
しかしながら
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの書かれた時代は
ヨーガスートラ(紀元5世紀頃)から遥かに後世(16-17世紀)なのです。

もしもハタ・ヨーガにおけるアーサナ等の技術が
ヨーガ完成に必要不可欠なものだとするならば
1000年以上もの間、ヨーガを完成することは不可能だったことになります。
実際には、ヨーガスートラ自体
それ以前のサンキャ・ヨーガ派の
600-700年間にわたる功績の集大成なのですから、
隔たりとしては都合1600年以上になるわけです。

ハタ・ヨーガの開発者として知られるゴーラクシャ・ナータにしても、
13世紀の人ですから、そこには1200年を超える空白期間があります。

ということは、
このような密教ヨーガの厳しい肉体的鍛錬がなくとも
長年にわたって、ヨーガは本来の目的を果たしていた
と考えるべきではないでしょうか。

だとすれば、あのような肉体的鍛錬なくして、
いかにしてサマディに至ることができたのか?
そして、なぜハタ・ヨーガのような密教系ヨーガが求められたのか?

この二つの疑問について何らかの答えを出さなくてはなりません。

2010年11月25日木曜日

ヨーガスートラ


ヨーガスートラの時代には、アーサナとは安定を得るためのものであり
現代に伝わるような技法はほとんど行なわれていませんでした。

「坐り方は、安定した、快適なものでなければならない」
(ヨーガスートラ2-46)
「そのような坐り方は、緊張をゆるめ、
こころを無辺なものへと合一させることによって得られる」(2-47)
「その時、行者はもはや寒熱、苦楽、毀誉、褒貶の
相対的状況によって悩まされることはない。」(2-48)

ヨーガスートラに於いて
8部門の説明をする段での「坐法(アーサナ)」に関する記述はこれだけです。
アーサナ(体位)に拘るハタ・ヨーガ・プラディーピガーとは対照的です。
それはつまり、ヨーガスートラの時代、
あのような体位群が特に必要とされていなかったことを示唆しています。

ですから佐保田博士も翻訳に際して、同じアーサナという語に
ヨーガスートラでは坐法、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーでは体位と
別の訳語を充てられたのだと思います。

ヨーガスートラの流儀に於いては、いくつかの坐法はあっても
それらは積極的にチャクラやクンダリーニに対して
その活性化を促すものではありませんでした。
佐保田博士の分類によれば、顕教ヨーガということですが
肉体的鍛錬ではなく、メディテーション中心の穏やかな方法であったことは
様々な文献などからも容易に推測できるところです。

2010年11月24日水曜日

推薦本

「何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
生前、佐保田鶴治博士は
ラーマナ・マハーリシと道元をとても高く評価しておられたそうです。

道元の説く身心脱落はまさにヨーガスートラの世界そのものですし
ラーマナ・マハーリシの言行録は、クリシュナムルティと共に
ヨーガを学ぶ際にすばらしい参考書となることでしょう。

ヨーガを理解するのに参考になる本がありますか?、とよく聞かれますが、
私は次の書物を推薦しています。

ラーマナ・マハーリシ・・「あるがままに」「不滅の意識」
クリシュナムルティ・・・「クリシュナムルティの瞑想録」
ヘルマン・ヘッセ・・・・「シッダールタ」(新潮文庫)

ヨーガスートラやウパニシャッドを読む際には
これらを参考にされるとよろしいかと思います。

2010年11月22日月曜日

大和と明日香

この度はたくさんの方々に参加して頂きありがとうございました。
古代史と瞑想の旅、楽しんで頂けましたでしょうか?
結構歩きましたが、とても気持ちがよかったですね。
紅葉も綺麗でしたし、私的には充実した2日間でした。

2010年11月19日金曜日

自衛隊音楽まつり

今夜は、小野田寛郎先生に夕食をご馳走になりました。
美味しい中華料理を戴きながら、先生の貴重なお話を伺うことが出来
とても楽しいひと時を過ごせました。
そして、お迎えの車に同乗し、一路、武道館へ。
日米安保改定50周年記念のスペシャル・セレモニーを兼ねた
「自衛隊音楽まつり」を鑑賞して来ました。
航空幕僚長のご招待でしたので、前から2列目という上席でした。
今回で2度目ですが、あの迫力にはいつも圧倒されます。


オープニングの第1曲目は「ハトと少年」でした。
最前列に鳩山前総理御夫妻が居られましたが、そのせいでしょうか(笑)
それと、防衛大臣は拝見しましたが、
さすがに官房長官は来ていませんでしたね。

2010年11月18日木曜日

顕教ヨーガの瞑想

巷間、瞑想法といわれるものが数多くあります。
伝統的なもの、適当に自分で開発したものなど、それこそ雑多ですが
いずれにしても
小手先の所作や作為が多ければ多いほど
顕教ヨーガの本質からかけ離れたものであることを知るべきでしょう。

形式に囚われたり、観想遊戯に陥ってしまっては
サマディなど夢のまた夢です。

真我が無形である以上
サマディへのアプローチも無形でなければなりません。

作為にまみれた瞑想法では
存在の深みに触れることは出来ないのです。

単に社会で役立つ能力をつけるためなら
複雑な瞑想法や呼吸法でも役立つことがあるでしょう。
その可能性は自分でも確認していますので否定はしません。

でもサマディは、心の作用が止滅した先にあるのです。
心や身体を懸命に動かすことによってサマディに至れると考えるようでは
永遠にサマディには手が届かないでしょう。

ヨーガスートラやウパニシャッドの各段階は
単なるイメージの世界ではありません。
ヨーガがヨーガであるために、
今その真実が問われるべきだと思います

2010年11月17日水曜日

紅葉-5

直会は京風会席料理で。
純米山廃の美酒も堪能しました。
四条中納言山蔭流嫡流皆伝の腕前は
まさに流石の一言です。
鮮度抜群の素材の良さがさらに輝きます!

紅葉-4

こちらには毎年来ていますが
今年も期待を裏切られませんでした。
平日なので人出も少なく、落ち着いた時間を過ごせました。
日本には四季折々の美しさがありますね。

紅葉-3

公園の片隅の風景です。
何ともいえない美しさでした。

紅葉-2

本当に最高でした。
モミジが真っ紅に染まり、色鮮やかでした!
写真で見るよりも、実物はもっと美景でしたよ。

紅葉

秋は紅葉ということで、少し遠出を。。。

2010年11月15日月曜日

疑問を持ち続けること


「大切なのは、疑問を持ち続けることだ」
アインシュタイン

いつも思うのですが
他に依存して、さしたる疑問を持たずに生きるのでは
なかなか人間は成長できないと思います。

様々な事柄に対して疑問を持ち、物事を深く考えるとともに
その本質を洞察する力を養うことが、
自分自身を磨くことに繋がると思います。

2010年11月13日土曜日

ダ・ヴィンチの手記

「河をゆく水は 
過ぎ去る最後の水であり 
また、来るべき最初の水である。 
この世の時も、また同じである。」
「ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯」

かなり前になりますが、
NHKの番組でダ・ヴィンチの生涯を描いたドラマを観ました。
ずっと探していたのですが、過日、DVD全3巻を手に入れました。
結構よく作られたドラマです。

天才の名をほしいままにしたダ・ヴィンチですが
ご存知の通り、芸術以外の分野でもその才能を発揮しました。
彼の書いた文献が残っていますので、一度読まれるといいと思います。
岩波文庫の「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」上下2巻です。
彼の思想の一端を知ることが出来るでしょう。
「運動は一切の生命の源である。」
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」上巻

2010年11月11日木曜日

ヨーギとしての達磨


大悟された禅の老師で
信仰によって大悟すると説いた方はいたでしょうか?
達磨大師は仏像に向かって坐禅を組み、
読経や儀式によって大悟されたのでしょうか?
達磨は恐らく当時最も釈迦個人の教えに近かった方だと思います。
それは皇帝との問答や少林寺での修行などを見ればよくわかりますが
果して後世の禅宗は達磨の教えを純粋に受け継いでいるでしょうか。
釈迦の教えの真髄は、いつしか表舞台から消えてゆきましたが
残された数少ない文献からある程度真実が明らかになっています。
スッタニパータなどの初期の原始仏典で、
釈迦がなにを語ったのか?
そこに仏教本来の真髄があるといっても過言ではありません。
達磨が伝えたとされるのは、易筋経、洗髄経と坐禅です。
達磨については架空の人物だという説も有力でしたが
99年9月16日の朝日新聞に出ていたように
河南省で石碑と墓塔が見つかった事によって、再度議論対象となってきました。
仮に実在していたとするならば
達磨こそ理想的なヨーギの一人だったといえるでしょう。
そして釈迦の教えにもっとも忠実な修行者だったと想われます。

2010年11月9日火曜日

一期一会


輪廻転生、よく耳にしますが
本当は、いわゆる生まれ変わりなどありません。
何度も何度も生まれ変わってやり直せると想わない方が賢明です。

ラーマナ・マハーリシは
「輪廻転生は真実でしょうか?」という質問に対して
次のように答えています。

『無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。
本当は、輪廻転生などまったく存在しない。
いまも、いままでも、そしてこれからも。
これが真理である。』
「あるがままに」ナチュラルスピリット

一度しかない「生」の尊さを自覚しながら、毎日を過ごすからこそ
今のこの瞬間が掛け替えのないものになるのです。

一瞬一瞬を充実して生きること。
それは人間に与えられた素晴らしいチャンスなのです。

2010年11月8日月曜日

死との融合

『彼女は死んだのではない。真我と融合したのだ。』
「ラマナ・マハルシの伝記」ナチュラルスピリット社

この本には、ラーマナの日常的なエピソードが書かれています。
私的には、母親の死を見守る時の姿が印象的でした。
彼女が帰幽した時、側に付き添っていた彼は
すぐに晴れやかな表情で立ち上がり
「さあ、食事にしよう」と言いました。

亡くなる直前まで、彼はずっと
右手を彼女のハートに、左手を彼女の頭に置いていましたが
一時の延命など、まったく関心はありませんでした。
彼女の真我が神我と融合すること。
それだけが、唯一の願いだったのです。
見送る、こと。見届ける、こと。それだけだったのです。

『プラーナ(生気)はハートに吸収され魂は遂に
微細な鞘をすべて脱ぎ捨てて
ふたたび無知に戻ることのない最終目標地、
解脱の至高の平安に到達したのだ。』
「ラマナ・マハルシの伝記」

サマディに入るということは
ある意味「死を体験すること」と言ってもいいでしょう。

自分が死んだらどうなるのか?
それを自ら覚ることで、生と死の真の意味を知ることができます。
そうすれば、死に対する怖れなど消えてゆきます。
そして同時に、本質的な意味で、
生きることの素晴らしさに気づきます。
「どこから来てどこへ行くのか?」
「魂の故郷(本源)へ還る」

昔からよく言われる言葉です。
ですが死に際して、
元いたところ(本源)に還れるとはかぎりません。
むしろ、還れない確率の方が圧倒的に高いと想われます。
なぜなら、人間は生きていた時に行けた所までしか
死後行くことができないからです。

もしも、本源に還ることを望むならば
生前にサマディを体験しておく必要があります。
「別に本源云々などどうでもいい」というのであれば
何も考えなくて良いのですが。。。

2010年11月6日土曜日

クリシュナムルティ


明日の講座は、いつものように
クリシュナムルティの本を読んであれこれとコメントするのではなく
幾つかのテーマを集中的に考察したいと思います。
もしお持ちでしたら
「英和対訳 変化への挑戦、クリシュナムルティの生涯と教え」を
お持ちになられてください。
中の数ページを資料として用意しますので
お持ちでない方は結構ですが、DVDもついていますので
興味のある方は、この機会に求められるのもいいかと思います。
「50年間、世界を旅しつつ、彼は教え、講話を行ってきた。
なのになぜ一人も変容を遂げなかったのだろう?
彼はこの問題、というよりはむしろ事態に深く関心を寄せました。」
同書P87
今回は、その理由をまず最初に考察したいと思います。

2010年11月5日金曜日

道を究める

特に密教ヨーガにいえることですが
たくさんの技術を集めることで
あたかもヨーガが上達しマスターしたかのように
誤解する人が少なくありません。
でも、ちょっと考えてください。
技術の収集は、たしかに「知識と情報の幅」を広くします。
しかし、もしも「理解の深さ」が伴わなければ
それは、薄っぺらいものでしかありません。
では、理解を深めるにはどうすれば、いいいでしょうか?
それには、各技法の原理や構図について
確かな体験を伴った正しい「悟」が必要なのです。
(脚注)
「悟」とは、
「経験的事実を論理的に理解する」ことを意味します。

2010年11月4日木曜日

自我に勝る価値観

「無形の魄である『エゴ、我』は顕教ヨーガの邪魔になるが
自我より大切なもの、自我に勝る価値観を持っていれば
顕教ヨーガの妨げにはならないということをおっしゃっていましたが、
この「自我より大切なもの」『自我に勝る価値観』とは
どのようなものなのでしょうか?」
マスタークラスの方から上記のような質問を頂きました。
密教ヨーガは、ボディとマインドがターゲットなので
必然的に、有形の魄(肉体)と無形の魄(想念)が強くなります。
有形の魄が強くなるのは、肉体の強化になるので問題はありません。
しかし無形の魄が強くなりすぎますと、これは真我の離脱を妨げます。
なぜなら無形の魄は、元々肉体と真我を結びつける要素の一つだからです。
結びつける力が強くなりすぎれば、
当然離脱にも、ネガティブな結果をもたらします。
つまり密教ヨーガのやりすぎは、真我の離脱にマイナスなのです。
しかしながら、
チベット密教が言うように
常に顕教が密教に先んずれば、やや様相が変わります。
その上、さらに、
自我より大切なもの、自我に勝る価値観があれば
自我の独走を抑制します。
そして、それは同時に真我の離脱にもプラスに働くのです。
そこで私は、
自我に勝る価値観について整理してみました。
その答えの幾つかは下記の通りです。
・信仰なき敬神の念
・依存なき師(グル)への信頼
・天命または天意
・惟神(かむながら)
ただ、天命、天意と惟神には、
受動態であってもいいですが、サマディの経験が必要です。
(通常、能動態としての離脱は、受動態の経験後になりますので
とくに矛盾はしません)

2010年11月3日水曜日

ハイブリッド・カー

過日、新幹線の車内に置いてある雑誌WEDGEを手に取りましたら
冒頭にとても興味深い記事が出ていました。

ハイブリッド・カー(HEV)は、
一般に環境に優しいエコカーだということになっていますが
同時に、深刻な環境破壊の原因にもなっているという話です。

最近はどうしても温暖化ガスに多くの注意が向いていますが
言うまでもなく、環境破壊は温暖化ばかりではないのです。

現在日本メーカーはHEV生産に不可欠な希土類磁石を作る為に
その原料となるディスプロシウムやテルビウムなどの元素を
100%近く中国から輸入していますが、
問題は、その採掘現場にあります。

そこで今何が行なわれているのか?
それを知ってから、HEVを購入しても遅くはないと思います。

前述の希土類精鉱ですが
採掘現場に直接大量の硫酸をかけて、浸出採取しているのです。
例えば、1000トンの鉱石から取れる希土類元素はわずか2トン。
つまり998トンの汚染土砂は、再処理もされずに
そのまま河に廃棄されています。
また、このようなケースだけでなく、工場排水や大気汚染等々により
昨今の河川の水質環境は、驚くほど悪化しています。

06年版の「中国環境状況広報」によれば
中国の7大水系(黄河、揚子江等)の全流域の計408箇所で検査したところ
全体の54%の水質が汚染されており、さらに深刻なのは
その5段階の審査区分にも入れられないほど重症と判断された「枠外」が
全体の26%もあった、というから驚きです。

昔日本でも光化学スモッグが大問題になっていましたが
中国では、都市部だけでも04年に35万8千人の人達が
大気汚染が原因で命を落としています。(P35)
これでは大規模な戦争並みの死者数です。

確かに
北京などいつも「もや」がかかっているようで遠くがよく見えないのですが、
当初はあれが大気汚染によるものだとは想いませんでした。
例えば「南方週末」誌によると
2007年12月だけでも「もや」は22日間に及びその日は
多くの人が呼吸困難、咳、めまい、倦怠感、吐き気イライラ感に襲われ、
病院に診察に訪れる患者も急増したとの事です。

記事(P36)では、「大気や海水の流れを見れば明らか」ということで
中国大陸からの越境汚染が日本を襲うと警鐘を鳴らしていますが
黄砂や酸性雨などのように、空気と水が、
国境を越えて繋がっていることを改めて考えさせられます。
中国を「世界の工場」そして「巨大市場」にした先進諸国は
それがもたらした深刻な環境破壊について、正しく認識すると共に
改善に向けた責任ある対応を、早急にとるべきだと思います。

環境問題については、ウソ、ホント、いろいろな意見がありますが
エコロジーを心掛けた結果、逆に環境を破壊していたとしたら
なんとも複雑な気分になりますね。
最近、日中問題の険悪化が話題ですが
実は、年初からレアアースの輸出制限は始まっていたそうです。
輸出制限に対する批判もいいですが、
同時に、生産には現地での環境破壊が伴うことも
忘れてはならないと思います。

『エコロジー運動』とは
「人間も生態系の一部であるという観点から、
自然環境と共生する生活や社会を構築することを
目指した運動のことを指しています。
自然保護や公害防止はもとより,
広く食品安全やリサイクル運動省エネ・省資源活動なども含みます。 」
(財団法人九州環境管理協会 環境関連用語より )

2010年11月2日火曜日

自我の終焉

ヨーガを続けるとエゴが強くなる
これは彼方此方でしばしば聞く言葉です。
確かに、そう思えるケースも少なくありません。
ただどちらかと言えば、
密教ヨーガの世界に顕著な気がします。
ヨーガ歴が長く、アーサナは上手いのに
瞑想が全然駄目な場合、
さらに新たな技術に頼るよりも
その前に内省をすべきだと思います。
クリシュナムルティも「自我の終焉」を書いていますが
その辺りもひとつの検討課題なのです。

体質別の食餌法

にんにくは身体に良いとか、いろんなXXX健康法のような話が
古今東西、テレビや雑誌で盛んです。

結論を言えば、
全ての人に共通して必ず良い体質改善作用を及ぼす食材などは
まず無いと言っていいでしょう。
中国医学上の分類で、全ての性質に『平』の評価がつくものについては
体質に対する影響はありませんが、栄養価として有益だと解釈します。

全ての食材には独自の性質があります。
つまり、個々の食材は
個人の体質に何らかの影響を与えるものと考えられます。

それは体を温める性質であったり、逆に体を冷やす性質であったりと様々です。
細かく言うとキリがないので、中国医学では通常8種類に分類しています。

ですからマスコミに乗せられて、個々の食材を盲信し、食事を偏らせるのは
健康を考える場合、あまり誉められた話ではないのです。
あらゆる自然食材は、
そのほとんどがまだ成分的に解明されていないと考えた方がいいでしょう。
つまり個別に見た場合、
既知成分よりも未知成分の方が遥かに多い事を知るべきです。

例えばにんにくですが、
一部に制癌成分が確認されているから、それを以って即座に癌患者に良い
と断定するのは明らかに間違っています。
未知成分の中にその制癌成分を抑制する成分があるかもしれないし、
もしかしたら制癌成分より強い発癌成分があるかもしれないからです。
つまり人体実験ではありませんが、
実際に多数の例がなければ、然るべき判断など出来ないわけです。
それを操作定義上の判断といいます。
化学薬品であれば、成分的にはその100%が既知であるため、
効能に関しては、操作定義よりも概念定義が優先されています。
しかし自然物質は、逆に、未知成分の方が既知成分よりも多いため
概念定義よりも操作定義が優先されるべきなのです。
故に、食餌法については、私は
2000年以上にわたって検証されてきた中国医学上の学説を信頼しています。

2010年11月1日月曜日

無心にして真技

「技が至れば無心にしてまさに真技となる」 王老師

無形に至るにも、まず有形を極める以外に道はありません。
ですが、有形を意なくして行ずるならば
無形に至ることは出来ないでしょう。

「技が至る」為には弛まぬ修練が必要です。
そして一段一段踏みしめながら階段を上るが如く、
地道に功を練ってゆくしか方法はないのです。

ここで問題になるのは、「意」という言葉です。
私はこれを内観と行気に分けて考えています。
内観とは内的な観察と集中であり、
行気とはエネルギーの操作に他なりません。
これなくして功を練り上げるのは、まず無理だといってよいでしょう。

無形に至るとは、
まさに、この次元の話なのだと思います。
気流とでもいいましょうか、
自分のみならず相手のエネルギーの流れをも全て包含して、
無心の内に激しい流れを鎮めるべく捌いてゆくことが、
無形の技に至った段階なのでしょう。

そこでは何かの形・型に無理して嵌め込む作為などないのです。
まさに老子の説く無為そのものといえます。

2010年10月30日土曜日

酸ヶ湯温泉

酸ヶ湯(すかゆ)温泉。
最高に気持ちよかったです。
混浴のせいか写真は禁止なので
公式サイトの写真をご覧下さい。
白濁した素晴らしい泉質でした。
売店で温泉卵を買って、車中で頂きました。

八甲田山-3

山頂駅からの風景です。
地面は凍っていて、凄く滑ります。

遠くへ目を向けると、すっかり雪模様。
かなり寒かったです。

八甲田山-2

ロープウェイの乗り場付近は、まだ紅葉でした。

途中、山肌を見下ろすと、
紅葉が終わり、しばらく枯木の森が続きます。
そして山頂に近づくにつれて、徐々に、
樹木が白色に染まってゆきます。
樹氷の始まりです。

八甲田山-1


八甲田山へ向う途中です。
もう雪景色でした。


道の両側もこの通り。

奥入瀬の紅葉-2

渓流の流れが、見事でした。

奥入瀬の紅葉

奥入瀬の風景です。
ふと、周りに目を向けると
紅葉が見事です。

ストーンサークル-2

結構広い遺跡です。
すぐ近くに、大湯ストーンサークル館があります。
発掘された土器なども展示されていますので勉強になります。

ストーンサークル

この写真を見て、すぐにどこかわかったら
かなりの古代史通だと思います。
ここは、青森県、大湯の特別史跡。
4000年前の縄文時代の環状列石。
実に見事です。
英国のストーンヘンジも4000~4500年前だそうですし
世界には、他にも同様の遺跡が多々あります。
そんな昔に各地で似たようなものが作られたことに感動します。

2010年10月28日木曜日

信仰とヨーガ

「スワミは恐らく
無味乾燥な説教者として、
また非人情的な世捨て人としての人生行路を辿るだろうが、
ヨギは、心と肉体を訓練し、霊魂を自由にする為の
一定の段階的修行に従事するだけである。
ヨギは神を感情的根拠や信仰によって受け入れる代わりに、
古代の予言者たちによって組み立てられた一連の
徹底的に吟味された修行の方式によって発見しようとする。
このヨガが、何時の時代にも印度に、
真に自由なヨギ・キリストを生み出して来たのである。」
『ヨガ行者の一生』ヨガナンダ著

バジアン師は次の様に語られています。
Is yoga a religion?  
It is and it is not.
In religion you have to belive something
and in yoga you have to experience what you want to belive.
『Teachings of Yogi Bhajan』
「スリ・ユクテスワァもこれほど目覚しくではなかったが、
やはり戒律を無視された。(中略)
シャンカラやスリ・ユクテスワァは
自己の存在を、非人格的な神と完全に一致させていた。
それ故、戒律によって救われる必要はなかった。
時には大師は、本質は形式よりも優れたものであり、
形式から独立したものであることを確証する為に、
故意に戒律を破ることさえあった。
この故にイエスは、安息日に麦の穂を摘んだのである。」
『ヨガ行者の一生』

宗教的戒律の厳しいインドに於いて、
故意に破戒を行なうには相当な勇気が必要だったと思います。
それでもなお、弟子たちに
自らの信念を示そうとするスリ・ユクテスワァ師は
まさしく偉大なグルだったと言えるでしょう。

このヨガナンダの名著は、
現在「あるヨギの自叙伝」と改題されて
森北出版より刊行されています。

2010年10月27日水曜日

書道とお習字

先日レクチュアの際に、
書道とお習字の違いについて話をしました。
昔私の古神道の先生が書道の先生もされておられたので
静岡まで修行に行く際に、書道も教えてくださいとお願いしたところ、
「小山さん、うまい字が書けるようになったら、
いい字が書けるようにお教えしましょう」と言われました。

お習字は形だけうまくなればそれで目的を達成します。
でも書道は、先生の言によりますと、
漢詩を書くなら中国の歴史や古典は必須科目であり、
できれば韻を味わう為に中国語の素養もあった方がい。
そしてかなで和歌を書くならば、
当然万葉集と日本史くらいは勉強しなさいとのことでした。
どんな意味かもわからずに、漢詩や和歌を書き連ねても
その作者の魂に触れることなどできないという事です。
つまり、形だけ整えて筆を走らせているうちは、
とても書道といえるレベルではない、という意味なのでしょう。

歌の世界でも同じことが言えます。
英語をほとんどわからない歌手が、
発音だけ真似て、英語の歌を歌っても
誰が心から感動するでしょうか。

そしてこれはヨーガにも当てはまります。
ただ形が出来て喜んでいるうちは、まだまだです。

そもそもいろいろなポーズや呼吸法は、
奥深い内観を補助するために考案されました。
ですから、もしも内観に秀でているならば、
汗を流してトレーニングする必要はなくなります。
脳と身体のムスビをブロードバンド化するのが、
ヨーガにおける、最初のハードルです。
そして書に、楷書、行書、草書があるように
ヨーガにもそれに類する階梯があります。

2010年10月26日火曜日

原始仏教と瞑想

釈迦は、生涯一度も仏像の前で読経などしていません。
彼の直弟子達もそうですし、その姿勢は数百年間続きました。
ですから、原始仏典には
「如来や菩薩を信仰すれば、商売繁盛とか、たくさんご利益がある」
などとは書かれていません。

原始仏教の瞑想とは、止観を基本としています。
そこでは釈迦が言うように信仰の介在する余地などありません。
かつて達磨が壁に向かって坐禅を続けたように
ただ無に向かって止観に徹するものでした。

仏像、真言、経典などに依存する在り方は
明らかに後世のものだと言えます。

顕教ヨーガの瞑想は
経典を読誦したり、真言(マントラ)を唱えたりするものではありません。
曼荼羅や仏像を持ち込んで礼拝したりなど一切行ないません。
紀元前のウパニシャッドや、かのヨーガスートラには
シヴァ神もクリシュナ神もでてこないのですから。
私のスタンスは、
釈迦が説くように、信仰に頼らず、その原点に立ち返り、
自灯明・法灯明、つまり真我独存と真理との合一体験を
真摯に、瞑想を通して追求するものです。
偶像崇拝や、経典に依存した救済ではなく
純粋にサマディを体験することを目指したいと思います。

2010年10月25日月曜日

般若心経

土曜日に般若心経と空観の講義を致しました。
時間が足りなくなってしまい、最後は早足になってしまいましたが
問題点の整理はある程度出来たと思います。
1.般若心経には幾つかの種類があること。
2.日本で読まれているいわゆる「小本」は、
経典の構成上「大本」に見劣りすること
3.「大本」はウパニシャッド型の状況設定になっていること。
4.空の概念は、スッタニパータの時代からあること
5.空の定義と空観の方法は、
  原始仏教、アビダルマ、中観、唯識等々の各時代(段階)ごとの
存在論の変遷を考慮して、しかも派別に考えるべきであること。
6.日本の僧侶が書いた解説本程度の解釈で満足しないこと
7.インド、中国、日本、チベットの各々の視点から考察すること
8.顕教と密教の2通りの視座から、その解釈と扱いを考察すること
9.すくなくとも下記の5冊は、しっかりと読んでおくこと
  「般若心経の真実」 佐保田鶴治著
  「般若心経・金剛般若経」 中村元著
  「密教瞑想から読む般若心経」 越智淳仁著
  「般若心経入門」 ダライラマ著
  「チベットの般若心経」 ゲシェー・ソナム他著
10.チベット密教に於ける般若心経の実修上の扱いが大変興味深いこと
11.空海の般若心経秘鍵を、彼の仏教史学との兼ね合いから読むこと
etc
般若心経を、ご利益型「信仰」の対象ではなく、
空観についての問題提起と捉えて研究しますと
大変参考になります。
いずれにせよ、誰のとは言いませんが
巷間出回っている日本の僧侶が書いた
一般向けの玄奘訳の「小本」解説だけ読んで
わかったような顔をしないことです。

2010年10月22日金曜日

至高のひと時

今夜は、本当に最高でした。
彼女のライブは初めてでしたが
心底、感動しました。
とても、言葉で表現できません!

2010年10月21日木曜日

猿丸大夫

奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき

明治天皇御百首-1

あさみどりすみわたりたる大空の ひろきをおのが心ともかな

自然であること

「マハムドラーは
すべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、
真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
『空』は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず、
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり」
『存在の詩』(星川淳訳)より
ゆったりと、自然に。
最近、日々の瞑想がとても充実しています。
ステップアップしたのが、
はっきりと自覚できるようになりました。
仕事を減らして、
時間的な余裕ができたのも一因だと思いますが
やはり、初心にかえって、志を新たにし
この「ただゆったりと、自然に」を心掛けたのが
よかったのだと思います。
もし進歩が感じられなくなってきたら、
基本に立ち返ることです。
ただ単に、基本技法に取り組めばよいのではなく
次の3つの「源」を再点検します。
 探源~源を探る 
 探原~原理を探る 
 探限~限界を知る
これらの智慧は、
より深い理解と体験をもたらすことでしょう。

2010年10月20日水曜日

ご祭神

外宮のご祭神について。
『古事記』で登由宇気神と表記されている豊受大御神は
御饌都神として、天照大神の御饌を司っています。

延喜式神名帳によりますと、外宮には
「渡会宮四座 豊受大神一座 相殿神三座」
が祀られていることになっていますが
この相殿神三座の神の名は明らかになっていません。
そこで相殿神三座の神々を「御伴神」と呼んでいるわけですが
わかっているけれど明らかにできないのか
それとも、実際にわからないのか
そのあたりは不明です。
しかしながら、外宮は
我が国の神社のトップクラスに位置する大変重要な神社です。
そのご祭神が、不明というのではなんとも困ったものです。
従って、私的には
「わかっているけれど明らかにできない」のだと想います。
ですが、もしそうなら
「なぜ?」という、その理由が気になります。

2010年10月18日月曜日

伊勢の旅-13

内宮の別宮、「倭姫宮」です。
ご祭神は、文字通り、倭(やまと)姫命です。
この倭姫命は、
皇大神宮をご創建されるという偉業を成し遂げられた方です。
月夜見宮(つきよみのみや)は、外宮から徒歩10分。
皇大神宮別宮の月讀宮にお祀りされている月讀尊と同神とされています。

参道の脇に、とても立派な大木があります。
みなさん触れることでパワーをもらおうとされているようですが
私はあまり賛成できません。

今回、伊勢神宮の内宮外宮、そして
それぞれの別宮(瀧原宮以外)を参拝してまいりました。
祀られている神々が異なれば、当然神気の質も異なります。
参拝される際には、ぜひそれぞれの神気の違いも
感じ取って頂ければと思います。