2010年6月23日水曜日

奈良・明日香探訪 2

「ウパニシャッド瞑想と古代史リトリート」
初日は、桧原と大神神社がメインになりますが
車中講義は、「神について」がテーマになります。
今まで語らなかった「神」の真実について
明らかにしたいと思います。
本当はどうなのか?
神との合一はどう体験されるのか?
その答えをお話しするつもりです。
巷間では聞けないリアルな秘伝的真実満載です。
2日目は、明日香の古墳群と史跡巡りですが
そこでの車中講義は、「古代史の謎」についてです。
特に邪馬台国の女王・卑弥呼と、神武天皇、
そして聖徳太子にフォーカスしたいと思います。
2日間で8時間のかなり濃い講義です。
お楽しみに。

2010年6月22日火曜日

奈良・明日香探訪

「ウパニシャッド瞑想と古代史リトリート」
第一弾 奈良・明日香を巡る~ヨギーニ特別企画
2010年11月20日(土)~21日(日)

8時間の瞑想と、8時間の講義!

古代史と瞑想の旅、第1回は「国のまほろば・大和と明日香」です。
1泊2日で何と16時間のレクチュアという盛りだくさんの高密なリトリートです。
元伊勢の聖地・桧原と、最古の神社とも言われる大神神社
卑弥呼の墓(?)箸墓古墳、日本最古の路として有名な山之辺の道
そして、石舞台などの明日香の古墳群を巡りながら
延8時間にわたり、古代史の薀蓄(私説)を聞いて頂きます。
さらに、2日間で8時間の瞑想を予定しています。
普段とは一味違う「厳かで神性さに満ちたもの」にするつもりです。
朝5時からの厳粛な瞑想を堪能してください。
一日目
11:30am 奈良県桜井市・JR桜井線桜井駅集合    
バスで観光=山之辺方面
崇神天皇陵~箸墓古墳~桧原神社~山之辺散策~大神神社~
橿原神宮~橿原考古学博物館~神武天皇陵
16:00 宿泊地「葛城の森」到着~瞑想
19:00 食事~自由行動
二日目
5:00 起床・瞑想、8:00 朝食、
9:00 ウパニシャッド瞑想と講義、12:00 チェックアウト(お弁当)    
バス観光=明日香方面
猿石~高松塚古墳~高松塚壁画館~鬼の俎/鬼の雪隠~
亀石~石舞台古墳~酒船石~奈良県立万葉文化会館~
蘇我入鹿首塚~飛鳥寺~飛鳥資料館
16:00 JR桜井駅解散
この大和ツアーの次は伊勢になります。
そして高千穂、諏訪と続きますので、ぜひご期待ください。

2010年6月15日火曜日

輪廻転生思想

生れ変りを説く輪廻転生思想は
古代インドからのものだと誤解されている方々が少なくありません。
実際には、BC600年前後に突然ウパニシャッドに登場したわけで
それ以前には、私の調べた限り、世界中に存在していません。

アーリア人がインドに侵入したのはBC1500年頃で
リグ・ヴェーダが成立したのはBC1200~1000年とされています。
BC1000年頃には他の三種類のヴェーダが成立しますが
これらのヴェーダには輪廻転生思想についての記述は全くありません。
なぜならインドの土着民族そして侵入者たるアーリア民族のいずれにも
輪廻転生の思想がなかったからです。

ではいつ頃から言われ始めたのかというと、文献的には
BC7~6世紀頃に編纂されたチャーンドーギヤ・ウパニシャッドに
5火2道説として登場するのが初出なのです。
それでも現在言われているような内容とはかなり趣が異なりますが。
ただ興味深いのは、この輪廻転生思想が
宗教を本職とする専門家集団であるバラモン階級から出たものではなく
王族や軍人たちの支配的権力階層から言われ始めた点です。

拙著「ヨーガの極意」に詳解していますが、私はこの輪廻転生思想を
当時の強圧的な階級制度と関連付けて考えています。

ところで、一般に知られるカーストという言い方は
後世のもので当時はヴァルナという語を使っていました。
このヴァルナの語源は「色」であり、
実際に肌の色で人種差別していたといわれています。
かつての南アのアパルトヘイトがイメージされますが
たぶんそれと似通った人種隔離政策だったのでしょう。

このような社会制度は応々にして革命を生むのが歴史のならいですが
それを押さえ込む為に支配的権力階層は画期的な対応策を発明しました。
私はそれが輪廻転生思想だったのだと考えています。

自らのカーストの本分を全うすることで来世によりよい階級へと生れ変る、
という思想を宗教理論の中に組み込み
それを従来の信仰に上手にリンクさせることで
階級制度に不満を持つ人々の革命意識を押さえ込もうとしたわけです。

世俗離れしたバラモン階級の僧侶たちには
あまり危機感がなかったかもしれませんが
財産と権力を有する王族や軍人達の支配的権力階級にとっては
自らの支配構造を維持する為に、
このような思想は極めて有効なシステムに思えたはずです。

そしてその宗教化されたシステムは凡そ2600年間続き
現在のインド社会に於いても、根強い効力を維持しています。

ラーマナ・マハーリシ師は
「輪廻転生は真実でしょうか?」という質問に対して
次のように答えています。

『無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。
本当は、輪廻転生などまったく存在しない。
いまも、いままでも、そしてこれからも。
これが真理である。』
「あるがままに」ナチュラルスピリット

実に明快な答えです。
輪廻転生とは無知がもたらす産物なのです。
ですから
このような輪廻転生思想にとらわれる必要などないのです。

ヨーガとシヴァ神

『シヴァ、ガナパティ、ブラフマーのような
その他の神々が人間の観点から存在します。
(中略)
しかし至高の絶対者、真我の観点からは
これらの神々はすべて幻影であり、
一つの実在の中に合一されねばなりません。』
ラーマナ・マハーリシ「不滅の意識」
クンダリーニJPでは以前より
ヨーガを宗教(信仰)と切り離してご提案してきました。
それは本来ヨーガと直接リンクしていないという理由と
恣意的に関連付けるのは好ましくないという判断からでした。
ですので、北千住ジムにはシヴァ神の像も神々の絵もなく
礼拝や読経、そして神名のチャンティングなど一切ありませんでした。
私自身が無信仰というのが理由のひとつでもありますが
本当は、ヨーガに信仰をリンクさせる事自体が
本来好ましくないと考えているためです。

釈迦や達磨が仏像や神像の前で
読経や、マントラや神名のチャンティングをしたでしょうか。
読経、礼拝、信仰に熱心に励むことで見性(悟り)に至る
と説いた禅の高僧が歴史上いたでしょうか。

道元も「正法眼蔵弁道話」で
礼拝、焼香、念仏、看経等を不用とし
「祇管に打座して身心脱落することを得よ」と述べています。

この道元の「身心脱落」は
まさにヨーガスートラの目指す境地であり、その意図するところを
極めて明確にかつ具体的に表現した素晴らしい句だといえます。
ここで道元は
心よりも前に、身の脱落があることを明示しています。
つまり、制感までで身の脱落を達成して肉体感覚の消失を得
然る後に、凝念以降で心の作用の止滅をはかるという
ヨーガスートラそのものの階梯です。

その時、
礼拝、焼香、念仏、看経等は邪魔になりこそすれ、
何ら助けにはなりません。
ですから、道元はその点について
「正法眼蔵」の最初に「弁道話」を置き
上記の通り「不用」だと明言しているわけです。
かねてより禅では
「仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺し」といいます。

この言葉は
「無門関」の冒頭にある「趙州の狗子」にもありますので
ご存知の方も多いと思いますが
私はヨーガも同じスタンスでよいと考えています。
ハタ・ヨーガ・プラディーピガー(1-5~8)に
「聖なる祖師シヴァ神」と出ているから
ハタ・ヨーガをやる以上シヴァ神を祭るべき、
というのもその方の自由なので、
正面から否定する気はありませんが
シヴァの解釈もブラフマンと同じく時代等によって様々ですので
深く勉強されるといろいろなことがわかってきます。

もっともハタ・ヨーガ・プラディーピガーは
かなり難易度の高い技法書なので
そこに書かれている全ての行法をその通りに実行されるのは
ほとんど不可能に近いかもしれません。
でも、内容的には参考になる点も多々ありますので
ヨーガを学ばれる方々は一度は読まれたほうがよいでしょう。
ところでラーマナ・マハーリシはインドに住みながら
上記のようにかなり過激な発言をしています。
でもこれはクリシュナムルティにもある部分共通するスタンスなのです。

『神を見出したりはできない。
神に至る道などはないのである。
人は様々な道、様々な宗教、様々な信念、あるいは
永続的な祝福を見出す助けになってくれると思われる救世主や
導師など実に様々なものを作り出してきた。

しかし悲しいことに、探究はやがて、
幻想や、精神が既知なるものを用いて投影し、
手直しを加えて生み出した幻像にと行きつくのである。』
「クリシュナムルティの瞑想録」

幻想は、どこまでいっても幻想に過ぎません。
そこには宗教的妄想と自己催眠に陥るリスクもあります。
ヨーガを宗教と深く結びつけ、かつ信仰を強いることは
ヨーガスートラの理想する世界に逆行するといってもよいでしょう。

瞑想の流れに出会う

『海辺をさまよいながら
この瞑想の流れに出会ってみたまえ。
しかし出会っても追いかけてはならない。
あなたが追いかけているのはすでに過去の思い出であって、
それはもはや死物にすぎない。

丘から丘にさまよい歩いて、
あなたのまわりのすべてのものに、生の美しさと苦痛を語らせ、
ついにあなたが自らの悲嘆に目覚め、
終焉させるようにしてみたまえ。

瞑想は根であり、幹であり、花であり、そして果実である。
植物の全体を果実、花、幹、そして根に分けてしまうのは言葉である。
このような分離の中では行為はついに不毛に終わる。
愛の行為とは全的な把握に他ならない。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

クリシュナムルティの言葉には
その一言一言に、なんともいえない輝きを感じます。
直接会うことができなかったのは残念でなりませんが
講話の様子は、DVDにもなっていますので
とりあえず雰囲気は知ることが出来ます。
彼の著作はたくさん出版されていますが
まずはこの「クリシュナムルティの瞑想録」から読まれては如何でしょう。
瞑想に役立つ珠玉の智慧が満載です。

2010年6月14日月曜日

沈黙

『何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。

瞑想は新たなるものの不断の開示である。
新たなるものは反復的な過去を超越したものである。
瞑想とはこの反復に終止符を打つことである。

瞑想がもたらす死は、新たなるものの永生である。
新たなるものは思考の領域にはなく、
瞑想とは思考の沈黙である。 

瞑想とは何かを成就することでも、
まぼろしを見ることでもなく、感覚を刺激することでもない。
それは抑える間もなく勢いよく流れて、
氾濫する川のようなものである。

瞑想は音のない音楽であり、
決して使い馴らしたりできるものではない。
それはそもそものはじめから
観察者の存在しない沈黙のことである。』
「クリシュナムルティの瞑想録」

ヨーガでは「集中」は妨げにしかなりません。
なぜなら集中は束縛を強めるからです。
私は練習に際して、しばしば「観察」を求めますが
それは「観照」に至るプロセスの一つにすぎません。
観察は集中と比べれば、作為が少ないといえますが
それらに固執し、留まっていますとヨーガは進歩しません。
ヨーガのサマディは「無為」の所産なのですから
作為はなくならなければならないのです。

集中は論外として、観察も
ビギナーの内だけしか役立たないのですから
それに拘らず、観照へと進むように心掛けてください。
「止観」という言葉があります。
この「観」を観察の事だと解釈している人たちが少なくないのですが
それは明らかに間違いです。(顕教ヨーガや禅の場合)

「止」とはシャマタつまり「心の作用の止滅」を意味します。
心の働きが止滅している状態では、
観察などできるはずがないのです。
ですから「観(ヴィバシャナ)」は観照でなければならないわけです。
観照なくして純粋観照者の出現もありえません。
つまり真我を観照することができないということです。

「自然無為」(老子)

観察に固執することもまた、
集中と同じくヨーガの進歩を阻害するのです。

ヨガ行者の一生

『大師は決して
盲目的な信仰を勧めるようなことはされませんでした。
「言葉と言うものは、貝殻に過ぎない。」
先生はよく言われました。
「瞑想中に自ら神と一致することによって、
神の存在の確信を得るようにしなさい。」』
「ヨガ行者の一生」(改訂版 「あるヨギの自叙伝」)
パラマンサ・ヨガナンダ著、関書院新社刊

ヨーガを学ぼうとする人たちの多くは
この本の存在をご存知のことと思います。
この本には、奇跡的なことが多分に書かれています。
それを信ずるかどうかは個人の意志によりますが、
この本を貫いている信念の清らかさと強さには
学ぶべき点が多いと思います。

犀の角の如く

『最高の目的を果す為、
慇懃精進し、心が怯む事なく、行を怠る事もなく、
堅固な活動をなし、体力と智力を備え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

独坐と禅定を、打ち捨てる事なく、
諸々の事柄について、理法に従がい、
諸々の生存には、憂いがあると知って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。』
「スッタニパータ」中村元訳

ここでは、
犀の角の如く独り歩め、
という言葉が何度も繰り返されます。
孤高の勧めのようですが、
要は信念の大事さを説いているのだと思います。
18歳から数年間、かなりストイックに生きてみましたが
後から見ますと、自分で自分を強く束縛していたように感じます。
真の自由を求めていたはずなのに、
鎖でがんじがらめになっていました。
超えるべきところを
「避けること」で誤魔化していたようにも思います。

自分を最後まで束縛するのは自分なのです。
荘子の「逍遥遊」ではありませんが
自然無為の生き方こそが理想だと思います。

『音や声に驚かない、獅子のように、
網に捕まることがない、風のように、
水に汚されることのない、蓮のように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。』

言必信、行必果

「言必信、行必果」
言うことには嘘はなく、行なうことは潔い
論語・子路編の言葉です。
田中角栄総理は日中国交回復に際して、
当時の周恩来首相からこのような墨筆の色紙をもらいました。

田中氏は、言葉の意味がよい事もあり、大変気に入ったようで
マスコミ各社の前で自慢げに披露したわけですが
それを知った安岡正篤先生は怒り心頭で憤慨したそうです。

後日北京で、周首相の側近だった中国の高官に聞きましたところ
周首相は学識深く、古代の文献についても造詣があったとのことでした。
ということは、意図的に、この色紙の文面を選んだことになります。

ではなぜ、安岡先生は怒り心頭に達したのでしょうか?
その答えは、論語をご覧になるとわかります。

そして、さらにその時、毛沢東主席は
田中氏に「楚辞集註」という本を贈ったそうですが
これについても安岡先生は憤慨されたとの事です。
古来中国では、学問そして帝王学の基礎は
先賢の叡智、例えば四書五経などを学ぶことから始めました。
つまり中国では、宰相として一流かどうかは、
業績はもとよりその基礎の有無が問われている
と言っても過言ではありません。

毛主席と周首相が何故そのような対応をしたのか?
その理由は、もちろん私にもわかりませんが
いずれにしても漢学に長けていた安岡先生にとっては
その辺りが逆鱗に触れ、立腹されたのだと想われます。
なぜ、そして誰に対して、安岡先生は怒ったのでしょうか?
興味のある方は、お時間のあるときに、
その謎解きをされては如何でしょう。
ただ私的には、田中元総理には特別な思いがあります。
もちろん、安岡先生の憤りはよく理解できますが
だからといって、田中氏に対する評価を変える気はありません。

座右の書

『心を打たれるような身に沁むような古人の書を
われを忘れて読み耽るときに、
人間は生きるということは誰もが知る体験である。
それを積んでおると、
しだいに時間だの空間だのという制約を離れて真に救われる。
いわゆる解脱をする。
そういう愛読書を持つことが、
またそういう思索・体験を持つことが
人間として一番幸福であって、
それを持つのと持たぬのとでは
人生の幸、不幸は懸絶してくる。』
「安岡正篤一日一言」致知出版社

私のデスク周りは、
座右、座左共々書物が山積になっています。
でも生き方を変えた一冊といえば、
やはりヘッセの「シッダールタ」です。
この書は小説なのですが、
ヨーガの奥義が沢山散りばめられています。
真摯にサマディを求めるのならば
此書は必要不可欠だといっても過言ではないでしょう。

元気

「われわれは『気』を養うということが、一番根本の大事だ。
いわば生のエネルギーを養うということ。
いい換えれば『元気』ということが一番である。
元気がないというのは問題にならぬ。
しょぼしょぼして、よたよたして、
一向に反応がないなんていうのは論ずる価値がない。
とかく人間は有形無形を論ぜず、元気というものがなければならない。
元気というものは、つまり生気である。
生のエネルギー、生々(いきいき)しておるということである。」
「安岡正篤一日一言」致知出版社
ラージャ・ヨーガやジニャーナ・ヨーガで真我を安定させるには
五気を整えることが前提となりますが、
それは所謂「元気」の獲得にも当然繋がるものです。
昨年来、クンダリーニJPでは顕教ヨーガに力を入れていますが
密教ヨーガで身心を鍛えることも大事だと考えます。
なぜなら身心を整えることは、ある意味ヨーガのベースだからです。
真我の安定は調和のとれた身心の安定の上にあります。
ですからアーサナ等も無理のないように続けとよいでしょう。
ただ、一生懸命アーサナに励むのも結構ですが
手段と目的を取り違えないようにして下さい。
また、私の経験から言えば
命がけの厳しい修行を続けることは、あまりお奨めできません。
様々な戒律に縛られ、過酷な鍛錬に身を置く自虐的ともいえるような修行は
自由と解放を伴う自然無為の対極に位置するものと考えます。
クンダリーニJPではヨーガ上達のキーワードとして次の5つをあげています。
優しく、柔らかく、繊細に、ゆったりと、無理なく。
過剰な束縛と緊張の人生ではなく
ヨーガを通して、真の自由を得ようではありませんか。

志気と志操

『志というものが単なる観念や空想ではなくて
それが物事を成してゆく現実のエネルギーである時は志気という。
本当の志気は客気ではなくて、
常に変わらざるものでなければならない。
いかなる場合にも志を変えないことを志操とか節操という。
志操とか節操が出来てくると、物に動じなくなる。
つまり物の誘惑や脅威に動かされなくなる。』
「知命と立命」安岡正篤著 プレジデント社

この一文は王陽明に関する解説の冒頭に書かれています。
王陽明といえば、明の時代に
知行合一で知られる陽明学をおこした人物として知られていますが、
系譜的には孟子の流れを汲むものです。

私的には、堅苦しい儒教系よりも
自然無為に生きる老荘系の思想に惹かれますが
「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」
という王陽明の言葉には思わず頷いてしまいます。
さて、志気と志操ですが
それが天命に即したものであれば最上だと思います。
ただこの「天命を知る」というのが簡単ではありません。
孔子ですら「五十にして天命を知る」というくらいですから。
なぜ難しいかというと
「三十にして立つ」「四十にして惑わず」
を経なければならないからです。

つまり自立し、不惑となって始めて
天命を知る前提条件が整うのです。
もし自立していませんと、
志は「単なる観念や空想」に過ぎず
現実にはなかなか結びつきません。

ですからまず「自立」して
物事を成してゆくための現実のエネルギー(志気)を得ることが
志を実現するベースとなります。
そして「四十にして惑わず」つまり不惑に至れば
当然のことながら「いかなる場合にも志を変えない」ということになるので
「志操とか節操」が出来「物に動じなくなる」わけです。

「知は行の始めにして、行は知の成なり」

知行合一も言葉の解釈だけなら難儀しませんが
問題は「知」の真義だと思います。
この「知」をどれだけ深く捉えることが出来るかです。

王陽明の「致良知」も結構なことですが
人間の本性や道徳知を超えた「天知(神知)」こそが
「良知」の極致だと、私は考えます。
そして、
この「天知」を覚ることこそが
まさに「天命を知る」ことなのだと思います。

2010年6月6日日曜日

学んで思わざれば

『物を評するは己を告白することだ。
深い人は何でもないことを深く解釈し
詰まらぬ人間は深いことを浅く解釈する。
心暗ければ世暗し、心明るければ世明るし
心深ければ世深し、心浅ければ世浅し。』
「安岡正篤一日一言」致知出版社

例えばヨーガスートラやウパニシャッドについて語るとき
どのような解釈ができるかによって、
その人の理解の深さがわかります。
これはヨーガに限らず、全てについて言えます。
また単なる言葉遊びなのかどうかは
その理解が己の体験に基づいているか否かによって
判断することができます。
真に理解の深い方は、
皆が見過ごしてしまう些細なことであっても
そこにさまざまな真理を見出すわけです。

坐井観天、という言葉があります。
井戸の底に坐って天を仰いでも、
広大な蒼天の僅かな一角しか見えません。
それが全てだと錯覚してしまうと、
人間の成長も期待できないでしょう。
しばしば申し上げているように、
囚われなく、自由に、幅広く学ぶことで
全体図を知り、己の現在位置を知ることは
坐井観天とならない為の、いわば予防処置でもあるのです。

「子曰、學而不思則罔、思而不學則殆」
子曰、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。
思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。

学んでも考えなければ正しく知ることは出来ない。
考えても学ばなければ真の理解には至らない。

知識が智慧となる為には、思索が不可欠です。
情報を沢山収集し、知識の量を増やしても
それだけでは役に立ちません。
それらを分類し、解析し、精査することで
確かなものと不確かなものに分け、
重要度別に整理する必要があります。
そして自らの内で、咀嚼し消化することで
単なる知識が、徐々に智慧へと変わってゆきます。
その意味で、知識と思索とは
不可分の関係にあるといってよいでしょう。

ギータンジャリ

『あなたが私に『歌え』とお命じになると
わたしの胸は いつも 誇らしさではりさけんばかり。

そんなとき、あなたのお顔を仰ぎ見ると、
わたしの目に 涙がこみあげる。

わたしの命のなかの耳ざわりな不協和音は
ことごとく ひとつの甘い調べに融け
わたしのあなたへの敬慕は 
嬉々として海原を渡り翔ぶ渡り鳥のように 翼をひろげる。
わたしは知っている
わたしが歌えば、あなたが嘉してくださるのを。

わたしは知っている
歌人としてのみ、わたしはあなたの御前に出られるのを。

遠くひろげた わたしの歌の翼の先端で、わたしは 
届こうとなど夢にも願わなかった あなたの御足に触れる。

歌う歓びに酔いしれて、つい我を忘れ、わたしは 
わが主たるあなたをしたしげに「友」と呼んでしまう。』
「ギータンジャリ」、タゴール著作集(第3文明社)
インドの詩聖タゴール(1861~1941)
インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合に努めました。
1914年に詩集「ギータンジャリ」で東洋人として初めてノーベル文学賞を受賞。
彼は哲学者デベーンドラナート・タゴールの息子として
カルカッタに生まれました。
子供のころから詩を書き始め、17歳の時に処女作を出版。
法律を学ぶためイギリスに留学し、
帰国後、それまでに書き溜めた詩、短編、小説、戯曲を発表して、
植民地時代の代表的作家となりました。
彼の作曲した数百の歌はひろく一般に親しまれ、
1929年からは絵画など、広い分野で才能を発揮しました。

最も平凡なもの

『詩の妙旨を説いた言葉に、
詩は目の前に見える景色を写し、
ふだん用いる景色を写し、
ふだん用いる言葉で述べるというのがある。
思うに、最も高遠な真理は、
最も平凡なものの中に宿っているものであり、
最も至難な理論は、
最も平易なものの中から出てくるものである。
詩によってたとえると、
ことさらに意を用いて技巧を加えたものは、
かえって真実に遠ざかるものであり、
無心なものの方が、
かえって自然と真実に近づくものである。』
「菜根譚」明徳出版社刊、中国古典新書より

平凡でいる事は、実はとても非凡なことだと思います。
別項に
「大過なく生涯を過ごすことができれば、それが即ち功名である。」
ともあるように
長く生きていると、平々凡々であることの難しさを痛感します。

菜根譚の言葉

『学問を志す者は、
物事に対しておのれをいましめ慎む心があり、
その上にまたさっぱりとして
物にこだわらなぬ味わいが欲しいものである。
もし、ひたすらにおのれをきびしく引き締め、
潔白で困苦に耐えるばかりなら、
万物を枯れしぼませる秋の気ばかりで、
万物を生じそだてる春の気がないようなものである。
春生秋殺がなくてどうして万物を発育させることができようか。』
「菜根譚」洪自誠、明徳出版社

シッダールタとゴーヴィンダ、ナルチスとゴルトムント。
この対照的な境涯を暗示させるような洪自誠の一文です。

この延長線上に、孔子の
「心の欲する所に従って、矩を踰えず」
があるように思います。

生成化育という言葉があります。
これはムスビの本義でもあり、
まさに大自然の大いなる働きを意味します。
それは春生秋殺のふたつの対照的な力、
つまり陰陽の絶妙なるバランスによって起こるものです。
どちらかに極端に偏るのは、好ましいことではないのです。

淮南子を読む

『見一葉落、而知歳之將暮、睹瓶中之冰、
而知天下之寒。以近論遠。』
「淮南子」説山訓より

「一葉の落ちるを見て、歳のまさに暮れようとするのを知る」
ほんの小さな兆しから未来の大きな動きを予測する事の喩え。

「淮南子」(「えなんじ」呉音)は前漢の淮南王・劉安(前179~122)が
各地の識者を集め編纂させた道学書(儒家・法家等の思想も含むが)
として知られています。
私の講座では、しばしば「淮南子」を引用しますが
真剣に読み込みますと、かなり難しい書です。

上記の説山訓ですが、現代でも充分に通ずる教えだと思います。
仕事や学業で成果を出す為には、繊細な感覚は不可欠です。
クンダリーニJPでは、かねてより内観を重視しています。
内観はムスビを実現する為に必要な技術なのですが
その内観の繊細さを磨く事は、外観力を高める事にも直結しています。
ヨーガで培った高度な内&外観力を
人生の様々な局面で最大限に生かしてゆくことで
皆さんの理想の実現に役立てて頂ければ幸いです。

2010年6月2日水曜日

瑜伽唯識論

無著はインドの大乗仏教の一派である唯識派の学者です。
本名はアサンガといい、310~390年頃の人物であると言われています。
彼は、西北インドのガンダーラ国にバラモンの子として生まれました。
若くして出家し、瞑想による欲望からの離脱法を学びました。
しかし中観の「空」を体得できないことに悩んで自殺しようとした時に
ビデーハ国の阿羅漢であるピンドラに出会い「空」を会得しました。

でも彼はこれに満足できず、インド中部のアヨーディヤに赴いて
当時もっとも厳しいとされた瑜伽行に取り組んだといわれています。

そして修行の末
マイトレーヤ(弥勒菩薩)から「瑜伽師地論」を授けられ
彼がその解説をすることになりました。
その後、弟の世親と共にこの唯識思想を完成させてゆきました。
「瑜伽師地論」の漢訳は唐の玄奘三蔵によりますが
瑜伽つまりヨーガの修行法や悟りの境地などを説きながら
瑜伽唯識論を展開してゆく内容となっています。

星の教団

「クリシュナムルティの瞑想録」には
「星の教団解散宣言」が研究資料として添付されています。

1929年、ベザント夫人とおよそ三千人にのぼるメンバーの前で
クリシュナムルティは、彼を代表とする星の教団の解散を宣言します。

クリシュナムルティは1895年5月、
南インドのマダナパルという町のバラモンの家系に生まれました。
14歳の時、神智学会のリードビーター師に見出され
後に同会に引き取られました。
その後ヨ-ロッパに連れて行かれたクリシュナムルティは
救世主としての英才教育を受けることになります。

1911年、当時の神智学会の会長、ベザント夫人は
クリシュナムルティを代表とする教団を設立しました。

しかしながら彼は、
組織的宗教や盲目的な信仰などによっては真理を得ることはできない、と考え
徐々に、組織そして自らの在り方について疑問を持つようになります。
そしてついにその日~決別と再誕の時~を迎えたのです。
彼は多くの人々の前で静かに語りかけました。
「私は言明する。
<真理>はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。
いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、
諸君はその領域へ近づくことはできない。
これが私の見解であり、私はこの見解を絶対かつ無条件に確信している。
<真理>は限りないものであり、無制約的なものであり、
いかなる道によっても近づきえないものなのであって、
したがってそれは組織化されえないものなのである。
それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、
あるいは強制するようないかなる組織も形成されるべきではないのである。」

20歳の頃、クリシュナムルティを知り始めた私は
彼の言葉に、とても大きな輝きを感じました。
その後、宗教団体に囚われることなく、自由に道を歩むことができたのは
まさに彼の思想から得た智慧のお陰だと思います。

「いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることはできない。
組織化された崇拝も、大義への献身も諸君を自由にはしない。
組織を作りあげてみても、仕事に没頭してみても
諸君は自由にはなれないのだ。」

真の自由とは何か?
その意味がわかるのにはかなりの年月を要しましたが
もしも特定の教義、信仰、組織などに縛られていたら
まず無理だったことでしょう。

「諸君は他の組織を作ることもできるし、
誰か他の者を期待することもできよう。
しかし私はそのことに興味はないし、新しい獄舎を作ることにも、
その獄舎の新しい様々な装飾品を作ることにも興味はない。
私の関心はただひとつ、
それは人々を、完全に、かつ無条件に自由たらしめることなのである。」
以上引用は「クリシュナムルティの瞑想録」

「依存」はとても安易な選択です。
でもそれは真の自由を妨げてしまいます。
自分の鼻で呼吸し、自分の足で歩くことができるようになりませんと
本当のものは見えてこないでしょう。

瞑想と自然

『宗教、すなわち組織化された信念は
明らかに秩序、深くかつ永続的な平和を
もたらす助けにはなりませんでした。』
「瞑想と自然」春秋社
以前、雑誌の取材で次のような質問を受けました。
「ヨガで平和になる?
ヨガ人口が増えれば、世界そして地球は平和になるだろうか?
変わらないだろうか?」
私の返答は以下の通りです。
「ヨーガが宗教と切り離して広まるならば、
多少は平和に貢献するはず。
しかし宗教と密着してその布教の道具と化すならば、
平和に逆行すると思います。
歴史を振り返ってわかるように、
人間は神仏の名の下に戦争と虐殺を繰り返してきました。
殺生を戒めているはずなのに・・・。
宗教&ヨーガ人口の多い国は果たして平和な歴史だったでしょうか?
スピリチュアルという言葉は美しいですが、
同時に血の匂いが漂っていることを歴史から学ぶべきですね。」

神との出会い

『それはマントラ、経文、称名を
繰り返し何度も何度も唱えている人のようなものだ。
称名を何度も何度も繰り返していると
明らかに起こることは
自分で自分の心を鈍く、愚かにし、
その愚かさの中で心が静になるということである』
「いかにして神と出会うか」めるくまーる社

瞑想とはなにか。
実際に取り組んだ方なら
きっと深く考えさせられるテーマのはずです。
瞑想とは
ある意味「神との出会い」だと言ってもいいでしょう。
「神はあらゆるところにいるのか?」との質問に対して
クリシュナムルティは
「あなたは本当に神を見つけたいのか?」と問い返します。
ここに、最初に越えるべき大きなハードルがあります。
もしYESと答えるのならば
それは信仰の放棄に始まり、多くの課題をクリアする必要があります。
『祈り、さまざまなヴィジョンを見、
部屋の片隅に姿勢よく坐り、正しく呼吸し
心でいろいろなことをする
こういったことはみな未熟で子供じみている。
瞑想というもののすべての意味を知りたいと
本当に願っている人にとっては
これは何の意味もない。』

変化への挑戦

『あなたが知識から探求する時・・・
あなたは自分自身をブロックしてしまうのです。
もし探求するつもりなら、
あなたの精神は自由でなければなりません。
結論から始めるのではなく。』
「変化への挑戦」コスモス・ライブラリー
本書は、DVD付きで、英和対訳になっています。
クリシュナムルティの映像や肉声が味わえます。
若い時からの写真など貴重なものも収録されていますので
一度手にとられるといいでしよう。
『意識的な瞑想は少しも瞑想ではないのです』
クリシュナムルティ関連では
沢山の書物が刊行されています。
いずれも難解なイメージですが
それは頭で理解しようとするからだと思います。
もし瞑想を楽しめるようになれば
彼の意図する所が自然とわかってくるはずです。
それは体験による理解だといってもいいでしょう。
『意識的でも意図的でもない瞑想があります。
その瞑想には完全な静寂があります。』

2010年6月1日火曜日

輝く光

『非常に敏感でありながら
頭脳が静まり返ることが重要である。
そうなって初めて
思考はそれ自身を解体し、終焉へと至る。 
思考の終焉は死ではない。
その時にのみ、無垢や新鮮さが、
思考に対する新たな質が存在することができる。
悲しみや絶望を終わらせるのはこの質である。』
「クリシュナムルティの神秘体験」めるくまーる社
クリシュナムルテが28歳の時
ある種の神秘体験(プロセス)が彼を襲いました。
当時の彼はまだ神智学会にいて
マイトレーヤとしての地位にありましたが
結果として、その翌年に「星の教団」を解散させるに至りました。
本書はクリシュナムルティに何が起きたのか、を知る上で
幾つかのヒントを与えてくれます。
それはひとつの切っ掛けであり、新たな気付きの始まりでした。
『今朝目覚めた時
あらゆる瞑想や思考、そして感情が創り出す幻想を超えて
人の存在の、頭脳のまさに中心や
頭脳を超えた意識の核心に
強烈に輝く光があった。
その光は影を持たず、
如何なる次元にも属していなかった。
その光と共に
あの思考と感情を超えた
測り知ることのできない強さと美が存在していた。』

比較せずに生きること

『比較せずに生きること
どんな種類の内的な測定もなしに生きること、
現実の自分とそうあらねばならない自分とを
決して比較しないこと。』
クリシュナムルティ「最後の日記」

私達は子供の頃から
競争原理の中で生きてきたように思います。
それは上から押し付けられたもので、決して快く思えませんでしたが
大きな流れに押し流されるかのように
仕方なく受け入れてしまったように思えます。

「比較せずに生きること」
このクリシュナムルティの言葉は、
心にグサりと突き刺さります。
勝つことばかりを気にするような人生には
真の安らぎは訪れないでしょう。

そしてなによりも
「現実の自分とそうあらねばならない自分」を比較することで
無用なストレスや苦しみを作らないことです。

自らを愛し、いたわること。
自分を愛せない人に
誰かを愛することはできないでしょう。

未来の生

『それは、目の不自由な人が、
『光とは何ですか?」と問うのに似ている。
もし私が彼に光とは何かを告げようとすれば
彼は彼の盲目に従って、彼の暗黙に従って聞くだろう。
が、見ることができるようになるやいなや
彼はけっして光とは何かを問わない。
それはそこにある。』
「未来の生」春秋社

信仰を捨てなければ悟れないと言った釈迦は
如何にして目を開くか、を教えました。
信仰こそが「盲目」の原因のひとつなのだと気付けば
とらわれなき自由に近づきます。
そして、その時から、真の瞑想が始まるのです。

呻吟語

『真の沈静なるものは自ら星が輝くように心が澄み、
ひときわ全き精神をその中に包んでいるのである。』
「呻吟語を読む」安岡正篤著
この呻吟語は
明代の思想家・呂新吾によって書かれたものです。
彼は、河南の沙随に隠棲し、82歳で世を去るまで
学を講じていました。
その伝記によれば、「天資魯鈍」とあり
いわゆる秀才の類ではなかったとされています。
そこで彼は、学問に関して
「澄心体認(心を澄ませて身につける)」を心掛けたそうです。
焦ることなく、無理をせずに
地道に学びを重ねていったわけです。
まさに、継続は力なりです。
『真機真味、要涵蓄。休点破。
其妙無窮、不可言喩。
所以聖人無言』
"真の機微や味わいは
そっと内に蓄えておくがいい。
その妙はつきることがなく
言葉に喩えることはできない。
それゆえに聖人も無言でいるのだ"
読みやすいのは安岡先生の本ですが
きちんと学びたい場合は
「呻吟語」(徳間書店)をお奨めします。