2010年8月18日水曜日

無量の沈黙

『瞑想のさなかにある精神は寡黙である。
それは思考が描きあげることのできる沈黙でも、
あるいは静かな夕暮れに漂う沈黙でもない。
それは思考が
そのすべての表象や概念、言葉および感覚反応もろともに
全的にその活動をやめて静まり返ったときに生まれる無量の沈黙である。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

マントラの使い方には、有声と無声の2種類があります。
力の発現度から言えば、圧倒的に無声に軍配が上がります。
ですから
集団で声高らかにチャンティングをするのは
宗教的な意味はあっても、
ヨーガ本来の効果はあまり期待できません。

マントラひとつみましても、無声の方がより効果的なのですから
例の「引き算の原理」でいうと、完全な沈黙、
つまり声のみならず言葉までも消去した状態の方が
遥かにハイレベルということになります。
実際、サマディの世界には
一切の言葉はありません。
むしろ邪魔になるといってよいでしょう。
クリシュナムルティの言うように言葉のみならず、
精神の寡黙さがもたらす「無量の沈黙」こそ
サマディの世界なのです。

自由


『自由は断じて相対的なものではない。
それはあるかないかのいずれかである。
自由がなければ、人は
葛藤、苦痛や悲嘆を伴う狭く限られた生を受容し、
あちらこちらでわずかばかりの変化をもたらすにとどまるであろう。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

自由への飛翔。
クリシュナムルティは、自由の素晴らしさを説きます。
私達は多くの束縛の只中にいますが、
どんなに逃避を繰り返しても
自分からは逃げることはできません。
自らがもたらす束縛は、
最期の障壁であり、克服すべき課題なのです。

真我独存は、ヨーガスートラのゴールだといえますが
それは無為の内に出現する純粋観照者が
自らを観照することによってのみ確認することができるものです。

ウパニシャッドの世界に踏み込み、真の自由を得る為にも
ヨーガスートラの説くサマディを一日も早く体得し
逍遥遊の内に、真我独存を実現されてください。

技術の奴隷

『生、真理は、生きられるべきものです。
ですが、表現は技術を要求します。
今、絵を描くためには、あなたは技術を学ぶ必要があります。
ですが、偉大な芸術家は、
もしも創造的衝動の炎を感じたなら、技術の奴隷ではないでしょう。

あなたが自己の中で豊かであるなら、
あなたの生は単純[素朴]です。
ですが、あなたは、
衣服の単純[素朴]さ、住居の単純[素朴]さといった外的手段をとおし、
禁欲主義と自己修練をとおして、その完全な豊かさに至りたいのです。
言い換えれば、
内なる豊かさから結果的に生じる単純[素朴]さを、
技術という手段により獲得したいのです。

あなたを単純【素朴]さに導いてくれるであろう技術は、ありません。
あなたを真理の地へ導くであろう道は、ありません。
あなたがそれを自分の存在全体で理解するとき、
そのとき技術は生において、
それにふさわしい所を占めるでしょう。』
「花のように生きる」クリシュナムルティ

技術に依存する人は、無為になるのが難しくなります。
なぜなら瞑想の本質から離れてゆくからです。
「瞑想法」に拘れば拘るほど、瞑想ではなくなってしまうのです。
「自然無為」つまり「ありのまま」に近づくことこそ
瞑想の極意そのものといってよいでしょう。

形式やマントラに頼るイメージトレーニング(観想法)では
とてもサマディには辿りつけません。
小手先芸の「瞑想法」という技術への依存を捨てるところから
真の瞑想ははじまるのです。

沈黙と静寂の中で何もしないこと、
あるがままに在ること
それが瞑想の要件なのです。

意識的な瞑想

『この瞑想とは
慎重に選ばれた姿勢で、意識的に瞑想することではない。
この瞑想は全く意識することなく、
自分が瞑想しているということを決して知ることなく、なされるのである。
もし、計画的に瞑想するのなら、
他のどんな欲望の表現とも同じく、欲望の別の形となってしまう。
対象は変わるかもしれない。
自分の瞑想は最高のものに到達するかもしれない。
しかしその動機は、実業家や大聖堂の建築家と同じで、
何かを達成しようという欲望なのである。』
クリシュナムルティ「最後の日記」より

技術に固執し、願望や欲望を根底に置いた瞑想では
真のサマディに至ることはできません。

確かに「瞑想法」という形式的な技術も
それなりに様々な効果を与えてくれます。
私も真言密教修行時代に、現世利益的な修法を沢山学びましたし
クンダリーニ・ヨーガやタントリック・ヨーガでも
日常生活に役立つ技法を種々修得することができました。
それはそれで大変貴重なものだと思いますので
それらの価値を認めることに私も賛成しています。
しかしながらサマディとなりますと
やはり顕教ヨーガの力が必要不可欠なのです。
人間として生まれてきて本当によかったと、
心の底から、魂が震えるような感動を覚える体験は
残念ながら密教ヨーガでは得られません。

真のサマディは、自然無為の境地でのみ到達できるものなのです。
技術の奴隷である内は、到底得られるものではありません。

解決の仕方

『これまでに
無数の救世主、達人、導師、政治的指導者あるいは哲学者がいたが、
誰ひとりとしてあなたを不幸と葛藤から救い出してはくれなかった。
それなのになぜあなたは彼らに従うのであろう。
おそらくわれわれの抱えている問題に対しては、
全く別の解決の仕方があるのではないだろうか。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版社

「自らを寄る辺とせよ」
釈迦は、依存心を捨てる事を教えました。
自分の鼻で呼吸し、自分の足で歩く。
自立することの大切さを諭したのです。
たしかに
「帰属」は時として暫しの安心を与えるかも知れません。
でもそれは真の自由と解放に繋がるものではないのです。
故に、クリシュナムルティも自らの団体を解散させました。
他人の価値観にがんじがらめにされる生き方、
針金を巻かれた盆栽のような人生。。。

自分を失うことの意味を、あらためて知る時
依存心の持つ多くの欠点に気がつく事でしょう。

2010年8月17日火曜日

戒律への固執


ヤマとニヤマについては、
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーに次のような記述もあります。

「ヨーガは次の六つのことがらによってくずれる」として、
そのひとつに「戒律への固執(こだわり)」(1-15)をあげています。

ヨーガを宗教的に色づけされている方々は
このヤマとニヤマについてしばしば言及され厳格に考えておられるようですが
ハタヨーガの聖典であるハタ・ヨーガ・プラディーピガーでは
ヤマとニヤマは部門として取り上げられてはおりません。

戒律への固執はヨーガを崩してしまうと主張しているくらいですから
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーがヤマとニヤマについて
ヨーガの部門から排除したのは当然かもしれません。

私的には、「戒律への固執」はヨーガの妨げになるという
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーに同意します。

ほとんどの宗教には特有の戒律があります。
でもそれらは多くの場合、帰属意識を維持する為にあえて
束縛感を強要しているような気がしてなりません。

信仰を常に意識させる為には
束縛のメニューが多いほうが効果的だからです。
「あっ!あれはダメだ!」とか
「XXはいいんだけど、これはダメなんだよね」とか
日常生活の多くの場面で様々な縛りをかければ
その都度、信仰を自ら再確認することになるからです。

帰属意識の維持に戒律がとても大きな力を発揮するのは
いつの時代でも同じだと思います。

ヤマとニヤマについて

ヨーガスートラによれば、
ヤマとは非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪(ふとん)であり(2-30)
ニヤマとは清浄、知足、苦行、読誦、自在神への祈念(2-32)をあげています。
これが完全に達成されないと次のアーサナに進めないとすれば
はたして何%の人が出来るでしょうか。

もちろん言葉の定義にもよりますが
凡人には不可能に近いかなり高いハードルだと思います。
実際、同書では次のように述べているわけですから
あながち的外れな感想ではないようです。

「知足の戒行を守ることからは無上の幸福が得られる」(2-42)

「読誦の行に専念するならば、
ついには自分の希望する神霊に会うことができる」(2-44)

「自在神への祈念によって三昧に成功することができる」(2-45)

注1・・神霊については、2-44参照。
注2・・自在神については、1-23、1-25、1-26を参照。
もし言葉通りに受け取るならば
三昧までの他のプロセスは不要ということになります。

文章から見れば、
カルマ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、バクティ・ヨーガなどに通ずるわけですが
これらの流派でも方法は異なれど、そのプロセスに於いては
八部門に類似したものがあるようです。

このヤマとニヤマは、佐保田博士によれば
「ヨーガ行を修習するにあたっての予備条件」ということです。
(「ヨーガ根本経典」45ページ)
ちなみに座法、調気、制感の三部門も
「ヨーガ行法の本命ではないから、外部の部門とよばれています」とのことで
「凝念から以後の三部門がヨーガの本命」だそうです。

つまり
一般にヨーガのメインアイテムと思われている呼吸法やアーサナは
「外部の部門」ですから
それができるようになったからといって
ヨーガをマスターしたと思わないほうがよいということです。

ヨーガスートラとハタヨーガ

ヨーガスートラによって
古典的なヨーガ、つまりラージャヨーガの行法体系はほぼ確立されますが
その中核は次の8種類の部門になります。

1.五禁戒(yama)ヤマ
2.五勧戒(niyama)ニヤマ
3.坐法(asana)アーサナ
4.調息(pranayama)プラーナーヤーマ
5.制感(pratyahara)プラチャーハーラ
6.凝念(dharana)ダーラナ
7.静慮(dhyana)ヂャーナ
8.三昧(samadhi)サマディ

佐保田鶴治博士によれば、このヨーガスートラは
サーンキャ哲学をベースにしたサーンキャ・ヨーガ派の代表的な作品であり
また、仏教の影響も強く見られる、とのことです。

これに対してハタ・ヨーガ・プラディーピガーでは、
ヨーガスートラとかなり異なり次の4部門を骨格として、章を構成しています。

1.坐法・・アーサナ
2.調気法・・プラーナーヤーマ
3.ムドラー
4.ラージャ・ヨーガ

この違いは、前者がサーンキャ・ヨーガ派の作品であるのに対して
後者がタントラ思想を背景として成立した事に起因すると考えられます。

ですから佐保田博士は、
「ヨーガスートラの説く古典ヨーガは顕教ヨーガ、
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの説くハタ・ヨーガは密教ヨーガであります。」
と説明されています。(「ヨーガ根本経典」序文)

ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの第3章の83から
「ヴァジローリー・ムドラー」等の説明を通して性的ヨガの解説が続きますが
それはハタ・ヨーガがタントラ系の行法であることの証左だと思います。

蛇足ですが、佐保田博士によれば
「ハタ・ヨーガは元来は
ヨーガ行のなかでは予備的な部門であったと思われる。(中略)
ところが、ゴーラクシャ・ナータのハタ・ヨーガは
ひとつの完成したシステムをなしているのである。」
として、さらに次の様に述べています。

「『ゴーラクシャ・シャタカ』のなかには、
ハタ・ヨーガの行法体系を形づくる部門として、
アーサナ(体位法)、プラーナ・サンヤマ(呼吸法)、プラチャーハーラ(制感法)
ダーラーナー(凝念法)、ディヤーナ(静慮法)、サマディ(三昧法)の六つがあげられている。」(「ヨーガ根本経典」237ページ)

このゴーラクシャ・ナータは、
ハタ・ヨーガの開発者、あるいは集大成した人物として知られている偉人です。
上記の六つの部門は、ヨーガスートラの8部門説と似た構成になっていますが
博士も指摘しているように、「その内容はだいぶ違ってはいる」わけで
さらに、ヤマとニヤマの2部門が骨格として含まれていないのが印象的です。

火生三昧

醍醐寺三法院(真言宗)にはふたつの流れが伝えられています。
ひとつは一般の僧侶の修行。
これは得度を受け四度加行などを経て僧侶への道を進むもので、
荒行などはあまり行ないません。
通常はそのまま僧侶の資格をとり、
寺院に勤めるか、家業をついで寺院の経営者となるのが一般的です。

もうひとつは修験道の修行。
この修験道は、1799年光格天皇より神変大菩薩の諡号を受けた
役行者こと役小角(えんのおづの)を開祖と仰いでいます。

役小角入滅後、醍醐寺開山聖宝(831-909年)が、大峰山を巡歴し、
役小角の精神の観見を融合、つまり霊的相承によって秘法を受け、
醍醐派修験道の秘法として後世に継承しました。
この秘法は「恵印三昧耶法」といい、
7段階の修法によって構成されています。

私は、学生の身ながら、即断でこの修験道に入門しました。
僧侶の道ではなく、修験道を選んだのは、徹底的に修行をしたかったからです。
それからの数年間私は文字通り命がけの荒行に没入してゆきました。
それは、例えば完全断食であり、滝行、火生三昧(火渡り修行)などなど、
普通に生活していたら、まず味わえないような体験の連続でした。
論語に「朝に道を聴けば、夕べに死すとも可なり」とありますが、
当時は、まさにその心境に他ならなかったのです。

この火生三昧は、全国各地で年に何度も行なわれました。
私も可能な限り参加しましたが、最初はあまりの火勢に驚いたものです。
火のそばに近寄る事さえ躊躇するくらいの熱気だったからです。
膝か腰あたりまで燃え盛る火の中へ、
ゆっくりと素足で4~5メートルほど歩いてゆくのです。