2010年9月30日木曜日

止観

眼を閉じることを瞑目と言うように
もともと瞑には「閉ざす」という意味があります。
ですから、瞑想とは「想いを閉ざす」と解釈してもよいでしょう。
想いとは、心の相のことです。
よく家相とか手相というように
相とは「特定の形の置かれている状態」を意味します。
不動産屋さんの店頭に家の間取り図が貼ってありますが
家相をみる場合、その間取りの方位上の向きが最も重要になります。
もちろん間取りの如何も大切ですが
その置かれている状態が最終的に吉凶を分けるわけです。
蛇足ですが、
孔明が駆使したとされる八門遁甲等では
さらに時間というファクターも用います。
つまり瞑想とは
「心の置かれている状態を閉ざす」ということになります。
これは所謂「止」に相当します。
インドでは、止と観がセットになっていますが
「観」を究めるには、まず「止」が前提となります。

ヨーガスートラやウパニシャッドなどの古典を読まれている方なら
すでにご承知のことと思いますが
この「止」は、ある意味ヨーガの根本であり、観照への基礎でもあります。
瞑想は、まさにここから始まるわけです。

達磨大師の最後

達磨大師といえば、中国の禅の開祖として有名ですが
どのような最後だったかは、あまり知られていません。
伝光録によれば
菩提流支と光統律師に5度毒薬を飲まされそうになりましたが
ギリギリのところで、危うく難を逃れました。
そして、6回目の毒を飲まされそうになった時
達磨が、その毒を盤石の上に置いたところ
たちまちその石が裂けたそうです。
その時、達磨は弟子への伝法を終えたことで、
自ら身を引こうと思い、坐禅をしたまま帰幽したとされています。
これを"毒殺された"と解釈する向きもありますが
本当の所はわかりません。
ただ、敵対していたグループがあったことは間違いなさそうです。
度々毒殺されそうになりましたし
彼らに石を投げられて、前歯を折られたりもしています。
この伝光録は日本曹洞宗の太祖、瑩山紹瑾禅師の提唱録です。
釈迦牟尼仏から始まって迦葉尊者などの西天二十八祖
そして中国に来た達磨を始めとし、東土六祖等を経て
道元とその弟子の懐弉に至る曹洞宗の流れを
それぞれの伝記を基に説明したものです。(全52章)

2010年9月29日水曜日

瞑想と祈り

「瞑想は祈りとは無縁である。
祈り、祈願は自己憐憫から生まれる。

あなたが祈るのは何か困ったとき、悲しいときであり、
自分が幸福で楽しいときには、祈願などはしない。

人間に深く根づいたこの自己憐憫は、
分離の根本要因である。

分離したもの、あるいは自らを他から分離したものと考えて
絶えず分離していないものとの一体化を求めているもの
そこからはさらに多くの対立と苦痛が生まれるだけである。

このような混乱を目のあたりにして、
人は天に救いを求め、妻は夫に哀願し、
あるいはまた、精神が神聖とみなすものに加護を求めたりする。

そのような訴えには、答えが返ってくるかもしれない。
しかしその答えは分離の淵から返ってくる自己憐憫のこだまである。
言葉や祈願を復唱するのは
自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。

思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、
祈りに対する答えは既知なるものの反応である。

瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、
その領域には思考は入れない。

その中では何の分離もなく、それゆえ
私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。

瞑想は開かれた場所にあり、
そこには何の秘密も介在していない。

あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、
そのような明澄さの中ではじめて、
愛とその美しさが現実のものとなるのである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
20年近く前になりますが
祖父に連れられて商売繁盛で有名な社に行きました。
私は信仰心を持ち合わせておりませんので
一礼をしただけで、合掌もせずに
ただ祖父の横に立っていただけでした。

「佛神は貴し佛神をたのまず」
宮本武蔵の「独行道」の一文です。
命のやり取りを繰り返した武蔵の最後の境地が
どのようなものだったかが伺えます。

「祈り」それはとても美しい言葉ですが
もしも欲得や自己憐憫に起因して行なわれるものならば
愛も輝きも失われることでしょう。

2010年9月28日火曜日

ラーマナのスタンス

ラーマナ・マハーリシの元には
ヒンドゥー教、キリスト教、仏教をはじめ
様々な宗教の信徒が集いました。
なぜなら、彼は
「私は誰か?」を探究する道を教えていたからです。
如何なる宗教に属そうと
「私は私」ですから
彼の立ち位置は、
教義以前のところにあったと言ってもいいでしょう。
「自分自身」との出会いをテーマにしているのですから
どのような宗教を持っていたとしても、
ぶつかり合うことはなかったのです。

真実の自己

「繰り返して言う。
諸君はこう考えておられる。
ある特定の人々のみが<幸福の王国>への鍵を持っていると。
誰もそんなものを持ってはいない。
誰ひとりとしてそんな鍵を持つ資格などありはしないのだ。
鍵は諸君自身の自己なのだ。
その自己の開発と浄化の中に、その自己の不滅性の中に、
その中にのみ<永遠の王国>は存在するのである。」
「クリシュナムルティの瞑想録」より
釈迦も自灯明、法灯明を説いています。
己を離れて悟りはないのです。
禅では悟ることを「見性」と言いますが
これは本来の面目というか、つまり
本性(真実の自己)を見ることであり
ラーマナ・マハーリシの「私は誰か?」に通ずるものです。
真我が独存しますと、真我は真我それ自身を観照します。
私はこの時こそ真の「見性」だと理解しています。

2010年9月27日月曜日

チャンティング

「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、
自己閉鎖的で破壊的なものである。
思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、
祈りに対する答えは既知なるものの反応である。
瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、
その領域には思考は入れない。

その中では何の分離もなく、
それゆえ私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。
瞑想は開かれた場所にあり、
そこには何の秘密も介在していない。
あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、
そのような明澄さの中ではじめて、
愛とその美しさが現実のものとなるのである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

チャンティングを行なったり、
何か宗教的なことを言えばスピリチャルに想われると
誤解しているインストラクターをしばしば見かけますが、
それは大きな間違いだと思います。
ヨーガはそもそも
盲目的な信仰を要求するような宗教ではないのですから
特定の宗派と結びつけて
布教の道具にするのは好ましく思えません。
広い視野で自由に思惟してこそ、
新たな気づきが得られるのです。
そして、とらわれのない瞑想の深みの中で
純粋な観照によって、真理に触れることが出来るのです。
クンダリーニJPでは、
祈りとかチャンティングとかは一切行ないません。
私自身が無信仰なことも理由のひとつですが、
なによりも宗教で誤魔化さないヨーガ本来の素晴らしさを
味わって頂きたいというスタンスだからです。

2010年9月25日土曜日

真理に至る道などは存在しない

「ただひとりあるとは、
どんな宗教や国家、いかなる信念やドグマにも属さない、
アウトサイダーたることである。

このような単独性こそが、
人間の愚行によっては決して触れられたことのない、
天真さに出会うのである。
世の中の喧燥のただなかにありながら、
決してそれに流されることなく生きられるのは、
天真な心である。

それはどんな衣装もまとっていない。
何らかの決まった道をたどって、
その結果善性が開花するというようなことはない。

なぜならば、
真理に至る道などは存在しないからである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

スッタニパータに「犀の角」という一連の句があります。

「出家者でありながら
なお不満の念をいだいている人々がいる。
また家に住まう在家者でも同様である。
だから他人の子女にかかわること少なく、
犀の角のようにただ独り歩め。」
『ブッダのことば』岩波文庫

スッタニパータでは、このように
「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が
なんと41回も、様々な内容で語られます。

この「犀の角のようにただ独り歩め」の解釈ですが
たとえば、ヒマラヤに引き篭もって誰にも会わず
生涯孤独を貫けとかいう意味ではありません。

友を選び、学び合い、啓発しあって道を歩んでゆくようにと
この経典で、釈迦は勧めています。

「学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。
いろいろと為になることがらを知り疑惑を除き去って、
犀の角のようにただ独り歩め。」

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを
時に応じて修め世間すべてに背くことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。」

つまり「犀の角のようにただ独り歩め」とは
己の心の持ち方、生き方のスタンスを説いているのです。

中村先生によれば
「犀の角のごとく というのは、
犀の角が一つしかないように、
求道者は他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく
ただひとりでも、
自分の確信にしたがって暮らすようにせよ、の意である。」

学生の頃、禅の師に「牛の鼻カン」という話を聞きました。
鼻カンというのは、鼻につける輪のことだそうです。
それに縄紐などを結んで引きずり回すわけです。
師は
「自分の鼻で呼吸をし、自分の足で歩け。
自らの本性に目覚めて、真の自由を得なさい。
人間には(牛のような)鼻カンなど無いほうがいい。」
と、いつも仰っていました。
どんな「衣装」もまとうことなく、
犀の角の如く本来の面目に従って、
天真な心で生きたいものです。
「真理に至る道などは存在しない」のですから。

2010年9月24日金曜日

瞑想の純粋さ

「瞑想において大切なことは、精神と心の質である。
肝要なことは何かを成就することでも、
あるいはめざす何者かになることでもなく、
天真らんまんでしなやかな精神のあり方である。

否定を通じて肯定的な状態が現われる。
ただいたずらに経験を蓄積し、経験によって生きていては、
瞑想の純粋さは生まれない。

瞑想は目的のための手段ではない。
瞑想は手段であり同時に目的である。
精神は経験によっては決して天真らんまんたりえない。
経験を否定することによってはじめて、
思考によっては生み出すことのできない天真なる状態が現われる。

思考は決して天真たりえない。
瞑想は思考に終止符を打つことであるが、
それは瞑想者によるのではない。
なぜならは、瞑想者と瞑想とは不可分の全体なのである。
そしてもしも瞑想がなければ、
人は光と色の大いなる美の世界にいながら、
それが見えない盲人のようなものである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
巷には瞑想法といわれるものが氾濫しています。
でもそのほとんどは単なるリラックスの為のものであったり
宗教目的や、想像を逞しくするような観想法ではないでしょうか。
ヨーガスートラは「心の作用の止滅」を説きます。
これは、クリシュナムルティの
「瞑想は思考に終止符を打つこと」に通ずるものですが、
いずれにしても
集中を求めたり何らかのイメージを膨らませる「妄想法」ではありません。
ヨーガに於いて、集中は邪魔ものだといえますが
観察もまた、厳密には、引き算してゆくべき対象です。
確かに観照に至る過程では、観察は重要な意味を持ちますが
いつまでも観察に囚われていたら、純粋観照者など出現しません。
止観という言葉があります。
これは止(シャマタ)と観(ヴィバーシャナ)に分かれます。
止とは、心の作用の止滅を意味します。
そして観(観照)とは、止の先に起こる境地なのです。
ですから止なくして、観はないといってよいでしょう。

もしも止ができないで、観だけを試みるならば
それは、心の作用の止滅を伴いませんので
ヨーガスートラの求める瞑想になりえません。
この点について誤解をしますと、サマディには到達できないでしょう。

真理はどこか遠くにあるのではない

「何も教えられてはいない。
あなた自身が自分の目で見たのである。
ひたすら見ることがあなたに示したのである。
言うなれば、そのように見ること自体があなたの師なのである。
見るも見ないもあなた自身にかかっているのであって、
他の何人もそれをあなたに強いることはできない。
しかし、もし報いを望んだり、罰を受けるのを恐れて見るというのであれば
そうした動機が見ることを妨げる。
見るためには、あなたは一切の権威や伝統や恐怖、
あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。
真理はどこか遠くにあるのではなく、
あるがままの現実を見きわめることにある。
あるがままの己れの姿を曇りなく、
あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ることこそは、
一切の探究の始まりであり同時に終わりである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』平河出版

ラーマナ・マハーリシは、かつて
「私は誰か?」という問いの大切さについて語りました。
上記のクリシュナムルティの言葉は
まさしくその答えに至る為の要件といってよいでしょう。

「あるがままの己れの姿を曇りなく、 
あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ること」
これについては
ヘッセも「シッダールタ」で次のように著しています。

「静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、
願いを持たず 判断を持たず、意見を持たず
聞き入ること」(新潮文庫)

まさに、ひと言一言が心に染み渡る至言です。
よく皆さんに、これこそ「観照への極意」だと申し上げていますが
これらは真の瞑想の要件として、
心に置いておくべき言葉だと思います。
瞑想とは、単なる想念遊戯ではありません。
先賢の智慧を学びながら、より深みへと達することが望まれます。

いつも思うのですが、
言葉の使い方は異なれども真理に到達した方々の言には、
大変似通った志と風格を感じます。

安岡正篤先生に言わせれば
「達人のいうこと、真理を学んだ人のいうことは
古今東西、みな一如である。」
ということになるのでしょうが。(「知命と立命」より)

2010年9月22日水曜日

霊的と呼ばれるものでない

「美と愛を持たなければ、
あなたはあの不可測なるものに出会うことはできない。

遍歴僧や聖者たちの生き方をつぶさに観察してみれば
この美と愛が彼らからほど遠いことに気づかれるであろう。

彼らはそれを口にするかもしれないが
何と言っても
彼らは厳格な規律励行者であって
自らの統制と要求において極端である。
そういうわけで、彼らは
サフラン色や黒い僧衣をまとい緋の衣や帽子をつけてはいても
本質的にはいずれも非常に世俗的なのである。

僧であることは一般の職業と同様、一種の職業であり
霊的と呼ばれるものでないことは明らかである。

なかには実業家と呼ぶ方がふさわしい者もいて
霊性のかけらもない者も見受けられるありさまである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

かつてヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」や
「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」を読んだとき
戒律や清貧に生きたゴーヴィンダやナルチスではなく
なぜ、ハチャメチャなシッダールタやゴルトムントが悟れたのか、と
不思議に思ったものでした。

結局、他人の決めた特定の価値観にがんじがらめになっていたのでは
真の自由、つまりサマディに到ることはできないのではないかと気づきました。

どんなに形が整って見栄えが良くとも
盆栽は、所詮盆栽に過ぎません。

ゼフィレッリ監督の「ブラザーサン&シスタームーン」という映画があります。
主題歌はドノバンで、内容的にもとても美しい映画です。

ボロボロの布を纏ったフランチェスコが神聖に目覚め
最後に、弟子たちを引き連れて、バチカンへ行く話です。

故郷で迫害を受けた彼らは、法王に
自らの信仰の在り方が、正しいか、それとも誤っているか、と問いかけますが
そこで映画は、驚くような結末へと展開してゆきます。

彼の言葉にいたく心を動かされた法王は、大聖堂の広間で
茫然としながら、指を天に向かって差し伸べ
しばし、眼を大きく見開いたまま、立ち尽くします。
そして、フランチェスコを面前に呼び戻します。

法王は、金襴の法衣を脱ぎ、純白の衣のまま壇を降りて
フランチェスコの手を取り、胸元でしっかりと握り締め
静かに語りかけます。

「貴方たちに会って、私は喜びと共に悲しみを感じている。
随分昔だが、はじめて聖職についた頃、私も皆と同じ気持だった。
だが、時が経つにつれて、いつしか熱意も薄れ
教会政治に忙殺されるようになった。
私達は富や権力の厚い殻をかぶっている。
貴方たちの清貧さに、私は自らを恥じる。。。。」

さらに法王は
「神の宿りは、その手に、そしてその足に」と祝福を与えながら
なんと、フランチェスコの足元に跪き
泥に汚れた裸足の甲に口づけをします。

最初にフランチェスコの言葉を聴いた時の
愕然とした法王の表情がとても印象的でした。
法王ですら、伝統ある大組織の歯車のひとつに過ぎないかのような
ある種の哀しさが伝わってきました。

私はキリスト教徒ではありませんが
この作品には何度も心を打たれました。
一見の価値あり、だと思います。

「ブラザーサン&シスタームーン
その声はめったに私に届かない
自分の悩みだけに、心を奪われているから
兄弟である風よ、姉妹である空の精よ
私の眼を開いておくれ
清く正しい心の眼を
私を包む栄光が眼に映るように」ドノバン

ところで先日、ある大病院の前を通りかかったときに
真っ白いロールスロイスが正面玄関に横付けされました。
つばのある帽子をかぶった制服姿の白手袋の運転手が、恭しくドアを開けるので
一体どんな人が降りてくるんだろうと思って見ていたら
なんと年配のお坊さんでした。。。

京都の某高僧は、夜になると鬘をつけて祇園へ遊びに行くそうですが
上求菩提、下化衆生は口先だけですか?と聞いてみたくなります。

2010年9月21日火曜日

そこに、瞑想の真の喜びがある

「制御があるところ、心の瞑想はありません。
あなたが獲得、代償を目当てに探求しているとき、
あなたの探求はすでに終わってしまったのです。(中略)
それは、制限のない永遠の動き[の状態]にあるのです。
そこに、瞑想の真の喜びがあるのです。
そこに、生きている平和があるのです。ですが、
結果を求めるとき、あなたの[諸々の]行為が示しているように、
あなたの瞑想は浅く空っぽになるのです。」
「花のように生きる~生の完全性 」UNIO刊

悟りを求めて瞑想をする
ひたすら、真摯に、求めれば求めるほど
サマディは遠のいてゆきます。
それに気づいたのは、20代半ばのこと。
発想の転換とでも言いましょうか。
ある日の午後、森の中を散歩している時、突然
「個人の悟りは、単なる通過点なのだ」と気づきました。
まさに吹っ切れたという言葉がぴったりかも知れません。
修行とか、悟りとか、どうでもよく感じられました。
それらに拘っていた自分が愚かに思えるほど
完全に、ステージがひとつ変わったことに気づきました。

無為の瞑想は
何かを獲得しようと思ったら、絶対に得られません。
もし代償を目当てに探求しているならば
サマディなど夢のまた夢でしょう。

瞑想は常に新たである

「瞑想は常に新たである。
それは何の連続性も持たず、
それゆえ過去は瞑想のうえに何の影も投じない。
<新しい>という言葉は、
いまだかつてなかったような清新な息吹きを伝えない。
それは消されたあと再び点されるろうそくの光のようなものである。
ろうそくは同じでも、新しい光は前のものと同じではない。」
「クリシュナムルティの瞑想録」

私もほぼ毎日、顕教ヨーガ系の瞑想をしていますが
日々新たな発見と感激があります。
密教ヨーガ系のメディテーションは
マントラやムドラーなど複雑化した技術を活用しますが
顕教ヨーガ系の瞑想は、
原則として自然無為を心掛けて行います。

心の作用が止滅することで、
作為なく「何もしない」状態となります。
雑念も沸くことなく、肉体感覚も消失してゆきます。
そして、自らの真我を観照することになります。
昨日の結果の上に積み上げてゆくのではなく
常に新しい輝きに包まれて「今」を受け止めます。

「瞑想は常に新たである。」
まさしく、その通りだと思います。

2010年9月18日土曜日

集中と瞑想

「集中と瞑想とを区別しましょう。
今あなたが瞑想について話すとき、
あなたたちのほとんどがいうのは、
たんに集中のこつを学ぶという意味です。
ですが、集中は瞑想の喜びにつながりません。

瞑想と呼ばれるものにおいて、
何が起きるのかを、考慮してください
それ[瞑想]はたんに、精神を
特定の対象や観念に集中させようと訓練する過程です。

あなたが意図的に選択したものを除いて、
他のすべての思考やイメージを、精神から排除します。
あなたは、その一つの観念、映像、言葉に、
精神を集中させようとします。

今それはたんに、思考の縮小、思考の制限です。
この縮小の過程の間に、他の思考が生じるとき、
あなたはそれらを追い払います。
それらを払いのけます。
それで、あなたの精神は、
ますます狭く、ますます融通がきかず、
ますます自由でなくなるのです。」
クリシュナムルティ「花のように生きる」より。

以前より、集中はヨーガにマイナスだと申し上げてきました。
全くのビギナーであれば、集中から入るのも仕方がないと思い
私もかつてそのような言葉を使ったことがありましたが
最近は、誤解を招くことの弊害を考えて
集中という言葉を使わないようにしています。

ヨーガスートラの「制感」のところには
「制感とは、諸感覚器官が,それぞれの対象から離れ」とあります。
そもそも集中とは、
感覚器官をそれぞれの対象に結びつける行為であり
ヨーガスートラの説く制感とは対極に位置しています。

五感を研ぎ澄まし、精一杯の集中力を発揮することによって
制感が達成されると考えているようでは
とてもヨーガスートラのサマディの境地には到達できないでしょう。
この極めて初歩的な理解が
後になってとても重要な意味を持つことになります。
ですから「集中」という言葉に囚われない様にされてください。
ヨーガのゴールでは真の自由が得られます。
ですからそのプロセスにおいても
束縛はできるだけない方が好ましいわけです。
荘子の第一章が「逍遥遊」
つまり「心まかせの遊び」という題であることを
あらためて思い出して頂ければ幸いです。

シャクティパッド

シャクティパッドとは、特殊なエネルギー制御法です。
その裏付けとなる力が「クンダリーニ」なので
シャクティパッドにも生気系と光輝系の2種類があります。

通常の瞑想のクラスでは、皆さんの間を歩きながら
一人あたり大体10~15秒位かけて行なっています。
普段は人数が多いので、どうしても短時間になってしまいますが
レベル2の時は、人数も30名程なので、一人につき20秒位ずつ3回
マスタークラスの瞑想合宿では、3人ずつ別室に招いて、個別に3~5分ほど
そしてレベル3では、一対一で10~15分位かけて行なっています。

本来は、マンツーマンで1回につき15~20分かけるものなのですが
時間が限られているため、なかなかそれができず残念です。

アーサナ等は、瞑想の準備として有効なものですから
それはそれでちゃんと練習されるといいと思います。
しかしながら、ヨーガの真の醍醐味は、肉体的な技法ではなく
サマディやシャクティパッドなどの無形の世界にあるのです。

私は幸いに先生方から数百回受けることができました。
沈黙と静寂の中で、それこそ多種多様なヨーガ体験が起こりますので
毎回が感動ものなのですが、同時に技術的な奥深さも知りました。

鑑機三昧

ウパニシャッドには
「傍らに座る」と「同一化する」というふたつの意味があります。
学者の方々は、どちらか一つを選びたいようですが
実践する側から見ますと、ややピントがずれているように感じます。

「傍らに座る」とは、言うまでもなくグルの側に座るわけですが
ただ坐るだけでは、あまり意味がありません。

ウパニシャッドの伝承は、知識と体験の両方によってなされますが
知識はともかく、体験の方は沈黙の内に伝えられます。
この時ただぼんやりと傍らに座っているだけでは何も起こらないわけで
そこにはどうしても「同一化」が必要になります。

もちろん、どんなに同一化しようとしても
そこにグルがいなければ、同一化する対象がないわけですから
それも話になりません。

従って、どちらか一つを選ぶというのではなく
「傍らに座る」と「同一化する」というふたつの要件が
同時に満たされなければならないわけです。
これは禅の世界でも同様です。

参禅とは、老師の傍らに座り、同一化することなのです。
正法眼蔵を読むと、この辺りの原理が細かく書かれています。
では、何と同一化するのか?というと
それはグルや老師がまとったサマディの雰囲気に他なりません。
本来、弟子への伝承は一対一が原則です。
弟子と対峙した時、まずグル&老師は鑑機三昧に入ります。
鑑機三昧とは、禅定つまりサマディの一つです。

仏教の辞典によれば、鑑機三昧について
「仏が説法するに際し、
あらかじめ相手の機根、能力を観察する為に入る禅定」
という解釈がなされています。

禅定に入らなければわからない「機根、能力」とは何なのでしょうか?

それはヨガでも古神道でも同じですが
真我の状態とその働きの特質に他なりません。

真我は、言うまでもなく、無形ですので、当然肉眼では見えません。
自分の真我を観ることは、
アートマンの「顧る働き」によって可能になりますが
これでは他人の真我を観ることはできません。
そこで「鑑機三昧」が必要になります。

サマディについて体験のない方々は
言葉遊びのようにあれこれと適当なことを言っていますが
サマディは、その質(働き等)の違いによって180種類以上あります。

鑑機三昧において、グル&老師は
無形対無形の観照を可能にする働きを持ったサマディの質をまといます。
それによって相手の真我の状態を正確に見極めなければ
適切な指導などできません。

そしてその働きを一部残した上で
相手の方に必要なシャクティパッドなり、新たな禅定を行ないます。
その場合の技術的な使い分けですが
積極的な場合は前者になりますし、
同一化の原理を活用する時は後者になります。

いずれにしても、顕教ヨーガや禅においては
鑑機三昧なくして適切な指導などできないということです。

見処逢源と孟子離婁篇

禅の十牛図「見牛」の序に
「声より得入すれば、見処源に逢う」というのがあります。
この中の「逢源」は元々、孟子の離婁篇にある言葉ですが
孟子は、そこで次のように示唆しています。

"道を求めるものは、自得すべきであり
自得した道であるからこそ、それを通して安定と智慧を得られる。
また、さらにそれを深めることができれば、
その源に逢う事ができるであろう。"

以前書きましたように
瞑想を通して「覚」を真摯に積み重ね
その経験的事実を論理的に理解してはじめて「悟」となり
「安定的な再現性」を持てるようになります。
学問とは、悟を実現する為に必要な要素のひとつなのです。
だから、先賢の叡智を学ぶわけです。

学問と瞑想は、道を求める際の両輪でなければなりません。
学問だけで喜んでいたら、単なる言葉遊びで終わってしまいますし
瞑想だけでは、その体験を理解することができません。
いずれにせよ「覚の安定的な再現性」に至ることは困難です。
それでは人を指導することはできないでしょう。

もし両輪が揃うならば
禅の十牛図なども実感として頷きながら読むことができます。
なぜなら、学問的な理解と瞑想の体験の両方が揃っているからです。
読んでいてわからないところがあれば、
その場で瞑想すればいいのです。
孟子の言う「自得」とは
他人の知識や経験を振りかざすのではなく
「自ら得よ」という意味です。
借り物を振り回すようでは、
自己顕示欲が満たされるだけで、虚しいだけです。

孔子も
「知るを知るとなし、知らずを知らずと為す。これ知るなり」
と言っています。
もし借り物ならば、引用は引用先を明示し、
他人に聞いたことはそれを付記し
また、自分の発見は自分で見つけた、と言うのが本当だと思います。
さもなくば、いつまでも「自得」にはならないでしょう。
これは「見牛」を妨げる理由の一つでもあります。

「何かを知るためには、あなたもそれにならなければなりません。
あなた自身もその経験を持たなければなりません。」
「自我の終焉」クリシュナムルティ 篠崎書林刊

2010年9月17日金曜日

自然に起こるもの

「瞑想は決して準備したうえでとりかかれるものではない。
それは行なう者が追い求めたりせずに
自然に起こるものでなければならない。
あなたがそれを求めたり、
あるいはその方法をあれこれ思案したりすれば
その方法自体がさらにあなたを制約するだけではなく
あなたを縛っている現在の制約を
いたずらに強固にしてしまうことであろう。」
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

昔この本を読んだ時
「自然に起こるものでなければならない」
というところがよくわかりませんでした。

「努力」の意味についても、随分悩みました。
朝早く起きて、まじめに頑張れば頑張るほど
理想から遠ざかってゆくような気がして気落ちしたものです。
そしてある朝、半分諦めながら気を楽にしてゆったりと坐った時のことです。
ふっと何か吹っ切れたかのように身の脱落が起こりました。

その後、試行錯誤を繰り返しようやく
安定的にサマディを体験できるようになった時
「なるほど!そういうことか」と気づきましたが
そこに至る道のりは簡単ではありませんでした。

「覚(見性)」は「悟(体験的事実を論理的に理解すること)」によって
はじめて再現性が高まるわけですから
ともかく「質」の伴った「量」を積んでゆく必要があったわけです。

なにが障壁だったのか?
どうすれば解決できるのか?
それがわからないと単発の「覚」で終わってしまいます。

瞑想とは、必死に頑張って行うものではないのです。
冬山に篭り、命懸けで修行する、などとは無縁な世界だったのです。
なぜなら瞑想とは、無為にして自然に起こるものだからです。
どこかに出かけて、特別な環境でなければサマディに入れない、とか
何時間も坐らないとサマディに入れない、とか、、、
私には、とても理解できません。
自分の部屋で、5〜10分以内になぜ、すっとサマディに入れないのかな?
と、疑問に思ってしまいます。
覚と悟を重ねて、再現性を得られたのなら難しくないはずです。
サマディとは、そういうものなのですから。

瞑想は世俗からの逃避ではない

「瞑想は世俗からの逃避ではない。
それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、
世界とそのあり方を理解することである。

社会は衣食住以外には与えるところ少なく、
それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。
瞑想はそのような世界を裕然として離れ去ることであり、
人は全的にアウトサイダーでなければならない。
そのときこの世は意味を帯び、
天と地はその本来の美を不断に開示する。
そのとき愛は快楽の影を宿さない。
そしてこの瞑想こそは、
緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、
力への渇望などから生まれたものではない、
全ての行為の源泉である。」
「クリシュナムルティの瞑想録」

ヨーガを続けるに従って我が強くなる人をしばしば見かけます。
でも本当は、形が多少上手くなったといっても、それだけのことです。
大した話ではないのです。

ヨーガスートラでは「心の作用の止滅」を説いているわけですから
真にサマディを目指すのであれば、
我執などの余計なものを一つひとつ落としてゆかなければなりません。

瞑想がすすんでゆきますと何かにつけ達観できるようになります。
余程の事でなければ「ま、いいか」で済ましてしまいます。
なんともいい加減な感じがしますが
むしろ、そのくらいが、いい「加減」なのだと思います。

達観とは、辞書によると次のような意味になります。
「細かい事にこだわらず、物事の本質を見通すこと。
また、物事に超然として、悟りの心境に達すること。
広い視野で物事を見ること。全体を見渡すこと。 」(大辞林)

ともあれ荘子の説く「逍遥遊」の世界に近づきたいものです。

頭脳そのものが静まり返ったとき

「瞑想は静謐の中で行なわれる運動である。
精神の沈黙こそは本然たる行為のあり方である。
思考から生まれた行為は天真たりえず、
それゆえいたずらに混乱を生むだけである。
精神の沈黙は思考から生まれることはなく、
精神のざわめきを止めれば生まれるというものでもない。
頭脳そのものが静まり返ったときにはじめて、
静謐な精神が生まれるのである。」
「クリシュナムルティの瞑想録」

ヨーガスートラには「心の作用の止滅」が説かれています。
いうまでもなく、ヨーガの全体像から見れば
ヨーガスートラの境地は準備段階にすぎませんが
雑念や妄想がいつまでも無くならない、という方も多いと思います。

それを解決する「コツ」というわけではありませんが
上記のクリシュナムルティの言葉に大きなヒントがあります。

「頭脳そのものが静まり返ったときにはじめて
静謐な精神が生まれるのである。」

雑念がわく時によく行なわれる数息観などは
原理的に見ると、ピントが外れているように感じます。
もっとも、天台小止観などによれば数息観は
初心者向けの技法という位置付けです。
ですから、瞑想を始めたばかりの方ならば構いませんが
1〜2ヵ月実践した方には、もはやお奨めできません。
数息観などは子供が眠れない時に
「羊を数えなさい」と母親が言うのと同じようなものです。
羊の変わりに、呼吸を数えることで思考の場を満たします。

集中は、瞑想には不要です。
心の作用の止滅に逆行するからです。
では、どうすればそのような作為によらず
心の作用が止滅し「精神の沈黙」が訪れるのでしょうか。
それには
顕教ヨーガに於けるムスビを理解し修得しなければなりません。

愛の流れに身を置く

「全き沈黙のうちにある精神の行なう瞑想こそは、
人間が求めてきた祝福である。
この沈黙の中に、およそ沈黙の持つすべての性質が含まれている。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

瞑想のベースは、言葉と思考の沈黙です。
ですからマントラをチャンティングしたりするのは
顕教ヨーガ系本来の瞑想ではありません。

ジニャーナ・ヨーガやレベル2に参加された多くの方から
「何もしない無為の瞑想の方がはるかにパワフルだった」とよく言われます。

佐保田鶴治博士も著書の中で
「顕教ヨーガは神秘主義型」だと書かれていますが
確かにその通りだと実感できます。

「瞑想のさなかにある精神は
沈黙のすべての変化と多様性と運動を包容している。
(中略)瞑想のさなかの精神は、このような沈黙の中を漂い
ただ愛の流れに身を置くだけである。
このような沈黙の中に祝福と朗らかな笑いが生まれる。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

瞑想とは「沈黙」つまり「想いを閉ざす」ことを意味します。
私達は、その沈黙を通してその先に
想像もできない世界を見出すことが出来ます。
サマディを語らないヨーガは果たして本来のヨーガだといえるでしょうか。
その答えは、瞑想の中で自ら得て、確認すべきだと思います。

「信仰というものは真理の否定であり、真理を妨げるものです
神を信じることは神を発見することではありません」
『自我の終焉』クリシュナムルティ 篠崎書林刊

2010年9月1日水曜日

中国医学

私は、ヨーガとアーユルヴェーダの組み合わせよりも
ヨーガと中国医学のセットの方が納得できます。
お勧めの文献を挙げるとすれば次のとおり。

「中国漢方医学体系 」張明澄著 耀文社
「中国経絡医学体系 」張明澄著 耀文社
「中国漢方薬学体系 」張明澄著 耀文社
「明澄医話」張明澄著 医研
「傷寒論評注」張明澄著 耀文社
「中国医学の話」 張明澄著 PHP
「中国医学概論」 張明澄著 医研文庫
「中国医学における病気と薬物」 張明澄著 医研文庫

「理論漢法医学」升水達郎他著 ドメス出版
「続・理論漢法医学」升水達郎他著 ドメス出版
「東洋医学通史」石原保秀著 自然社
「金匱要略講義」 杉原徳行稿 出版科学総合研究所
「東洋医学概説」長浜善夫著 創元社
「病気別漢方食養法」 陳懐仁著 自然社
「中医診断学」広東中医学院主編 自然社
「中国漢方医語辞典」広東中医学院主編 中国漢方社
「道家養生学概要」天石著 自由出版社
「医学衷中参西録」張錫純著 河北人民出版社
「温熱経緯」王孟英著 旋風出版社
「時病論」雷豊著 旋風出版社
「築基参証」許進忠著 真善美出版
「張錫純医案」張錫純著 創譚出版社

黄帝内経~素問

黄帝内経は、現存する中国最古の医学書として知られています。
古くは鍼経と素問各9巻で構成されていたと想われますが
残念ながらこれらは既に散逸してしまい、現存しているのは
王冰の編纂した素問と霊枢を元型としたものだと言われています。

そもそも黄帝とは、中国の神話伝説に登場する帝王で
司馬遷の「史記」秦始皇本紀によれば
三皇(天皇・地皇・人皇)の治世を継ぎ
中国を統治した五帝の最初の帝王だと位置づけられています。

ただ、この五帝については、
史記、戦国策等をみますと諸説様々で確定的な説はありません。
この黄帝が、岐伯を始め幾人かに諸々の疑問を質問したところから
「素問」と呼ばれるようになったと言われています。
素問は医学だけでなく、
哲学、天文、天候、薬学等の広範な領域をカバーしている為、
単なる医学書ではなく、古代中国の科学書として、
様々な智慧を与えてくれます。
素問を理論書とすれば、
霊枢は、技術書だといってよいでしょう。