2010年10月30日土曜日

酸ヶ湯温泉

酸ヶ湯(すかゆ)温泉。
最高に気持ちよかったです。
混浴のせいか写真は禁止なので
公式サイトの写真をご覧下さい。
白濁した素晴らしい泉質でした。
売店で温泉卵を買って、車中で頂きました。

八甲田山-3

山頂駅からの風景です。
地面は凍っていて、凄く滑ります。

遠くへ目を向けると、すっかり雪模様。
かなり寒かったです。

八甲田山-2

ロープウェイの乗り場付近は、まだ紅葉でした。

途中、山肌を見下ろすと、
紅葉が終わり、しばらく枯木の森が続きます。
そして山頂に近づくにつれて、徐々に、
樹木が白色に染まってゆきます。
樹氷の始まりです。

八甲田山-1


八甲田山へ向う途中です。
もう雪景色でした。


道の両側もこの通り。

奥入瀬の紅葉-2

渓流の流れが、見事でした。

奥入瀬の紅葉

奥入瀬の風景です。
ふと、周りに目を向けると
紅葉が見事です。

ストーンサークル-2

結構広い遺跡です。
すぐ近くに、大湯ストーンサークル館があります。
発掘された土器なども展示されていますので勉強になります。

ストーンサークル

この写真を見て、すぐにどこかわかったら
かなりの古代史通だと思います。
ここは、青森県、大湯の特別史跡。
4000年前の縄文時代の環状列石。
実に見事です。
英国のストーンヘンジも4000~4500年前だそうですし
世界には、他にも同様の遺跡が多々あります。
そんな昔に各地で似たようなものが作られたことに感動します。

2010年10月28日木曜日

信仰とヨーガ

「スワミは恐らく
無味乾燥な説教者として、
また非人情的な世捨て人としての人生行路を辿るだろうが、
ヨギは、心と肉体を訓練し、霊魂を自由にする為の
一定の段階的修行に従事するだけである。
ヨギは神を感情的根拠や信仰によって受け入れる代わりに、
古代の予言者たちによって組み立てられた一連の
徹底的に吟味された修行の方式によって発見しようとする。
このヨガが、何時の時代にも印度に、
真に自由なヨギ・キリストを生み出して来たのである。」
『ヨガ行者の一生』ヨガナンダ著

バジアン師は次の様に語られています。
Is yoga a religion?  
It is and it is not.
In religion you have to belive something
and in yoga you have to experience what you want to belive.
『Teachings of Yogi Bhajan』
「スリ・ユクテスワァもこれほど目覚しくではなかったが、
やはり戒律を無視された。(中略)
シャンカラやスリ・ユクテスワァは
自己の存在を、非人格的な神と完全に一致させていた。
それ故、戒律によって救われる必要はなかった。
時には大師は、本質は形式よりも優れたものであり、
形式から独立したものであることを確証する為に、
故意に戒律を破ることさえあった。
この故にイエスは、安息日に麦の穂を摘んだのである。」
『ヨガ行者の一生』

宗教的戒律の厳しいインドに於いて、
故意に破戒を行なうには相当な勇気が必要だったと思います。
それでもなお、弟子たちに
自らの信念を示そうとするスリ・ユクテスワァ師は
まさしく偉大なグルだったと言えるでしょう。

このヨガナンダの名著は、
現在「あるヨギの自叙伝」と改題されて
森北出版より刊行されています。

2010年10月27日水曜日

書道とお習字

先日レクチュアの際に、
書道とお習字の違いについて話をしました。
昔私の古神道の先生が書道の先生もされておられたので
静岡まで修行に行く際に、書道も教えてくださいとお願いしたところ、
「小山さん、うまい字が書けるようになったら、
いい字が書けるようにお教えしましょう」と言われました。

お習字は形だけうまくなればそれで目的を達成します。
でも書道は、先生の言によりますと、
漢詩を書くなら中国の歴史や古典は必須科目であり、
できれば韻を味わう為に中国語の素養もあった方がい。
そしてかなで和歌を書くならば、
当然万葉集と日本史くらいは勉強しなさいとのことでした。
どんな意味かもわからずに、漢詩や和歌を書き連ねても
その作者の魂に触れることなどできないという事です。
つまり、形だけ整えて筆を走らせているうちは、
とても書道といえるレベルではない、という意味なのでしょう。

歌の世界でも同じことが言えます。
英語をほとんどわからない歌手が、
発音だけ真似て、英語の歌を歌っても
誰が心から感動するでしょうか。

そしてこれはヨーガにも当てはまります。
ただ形が出来て喜んでいるうちは、まだまだです。

そもそもいろいろなポーズや呼吸法は、
奥深い内観を補助するために考案されました。
ですから、もしも内観に秀でているならば、
汗を流してトレーニングする必要はなくなります。
脳と身体のムスビをブロードバンド化するのが、
ヨーガにおける、最初のハードルです。
そして書に、楷書、行書、草書があるように
ヨーガにもそれに類する階梯があります。

2010年10月26日火曜日

原始仏教と瞑想

釈迦は、生涯一度も仏像の前で読経などしていません。
彼の直弟子達もそうですし、その姿勢は数百年間続きました。
ですから、原始仏典には
「如来や菩薩を信仰すれば、商売繁盛とか、たくさんご利益がある」
などとは書かれていません。

原始仏教の瞑想とは、止観を基本としています。
そこでは釈迦が言うように信仰の介在する余地などありません。
かつて達磨が壁に向かって坐禅を続けたように
ただ無に向かって止観に徹するものでした。

仏像、真言、経典などに依存する在り方は
明らかに後世のものだと言えます。

顕教ヨーガの瞑想は
経典を読誦したり、真言(マントラ)を唱えたりするものではありません。
曼荼羅や仏像を持ち込んで礼拝したりなど一切行ないません。
紀元前のウパニシャッドや、かのヨーガスートラには
シヴァ神もクリシュナ神もでてこないのですから。
私のスタンスは、
釈迦が説くように、信仰に頼らず、その原点に立ち返り、
自灯明・法灯明、つまり真我独存と真理との合一体験を
真摯に、瞑想を通して追求するものです。
偶像崇拝や、経典に依存した救済ではなく
純粋にサマディを体験することを目指したいと思います。

2010年10月25日月曜日

般若心経

土曜日に般若心経と空観の講義を致しました。
時間が足りなくなってしまい、最後は早足になってしまいましたが
問題点の整理はある程度出来たと思います。
1.般若心経には幾つかの種類があること。
2.日本で読まれているいわゆる「小本」は、
経典の構成上「大本」に見劣りすること
3.「大本」はウパニシャッド型の状況設定になっていること。
4.空の概念は、スッタニパータの時代からあること
5.空の定義と空観の方法は、
  原始仏教、アビダルマ、中観、唯識等々の各時代(段階)ごとの
存在論の変遷を考慮して、しかも派別に考えるべきであること。
6.日本の僧侶が書いた解説本程度の解釈で満足しないこと
7.インド、中国、日本、チベットの各々の視点から考察すること
8.顕教と密教の2通りの視座から、その解釈と扱いを考察すること
9.すくなくとも下記の5冊は、しっかりと読んでおくこと
  「般若心経の真実」 佐保田鶴治著
  「般若心経・金剛般若経」 中村元著
  「密教瞑想から読む般若心経」 越智淳仁著
  「般若心経入門」 ダライラマ著
  「チベットの般若心経」 ゲシェー・ソナム他著
10.チベット密教に於ける般若心経の実修上の扱いが大変興味深いこと
11.空海の般若心経秘鍵を、彼の仏教史学との兼ね合いから読むこと
etc
般若心経を、ご利益型「信仰」の対象ではなく、
空観についての問題提起と捉えて研究しますと
大変参考になります。
いずれにせよ、誰のとは言いませんが
巷間出回っている日本の僧侶が書いた
一般向けの玄奘訳の「小本」解説だけ読んで
わかったような顔をしないことです。

2010年10月22日金曜日

至高のひと時

今夜は、本当に最高でした。
彼女のライブは初めてでしたが
心底、感動しました。
とても、言葉で表現できません!

2010年10月21日木曜日

猿丸大夫

奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき

明治天皇御百首-1

あさみどりすみわたりたる大空の ひろきをおのが心ともかな

自然であること

「マハムドラーは
すべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、
真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
『空』は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず、
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり」
『存在の詩』(星川淳訳)より
ゆったりと、自然に。
最近、日々の瞑想がとても充実しています。
ステップアップしたのが、
はっきりと自覚できるようになりました。
仕事を減らして、
時間的な余裕ができたのも一因だと思いますが
やはり、初心にかえって、志を新たにし
この「ただゆったりと、自然に」を心掛けたのが
よかったのだと思います。
もし進歩が感じられなくなってきたら、
基本に立ち返ることです。
ただ単に、基本技法に取り組めばよいのではなく
次の3つの「源」を再点検します。
 探源~源を探る 
 探原~原理を探る 
 探限~限界を知る
これらの智慧は、
より深い理解と体験をもたらすことでしょう。

2010年10月20日水曜日

ご祭神

外宮のご祭神について。
『古事記』で登由宇気神と表記されている豊受大御神は
御饌都神として、天照大神の御饌を司っています。

延喜式神名帳によりますと、外宮には
「渡会宮四座 豊受大神一座 相殿神三座」
が祀られていることになっていますが
この相殿神三座の神の名は明らかになっていません。
そこで相殿神三座の神々を「御伴神」と呼んでいるわけですが
わかっているけれど明らかにできないのか
それとも、実際にわからないのか
そのあたりは不明です。
しかしながら、外宮は
我が国の神社のトップクラスに位置する大変重要な神社です。
そのご祭神が、不明というのではなんとも困ったものです。
従って、私的には
「わかっているけれど明らかにできない」のだと想います。
ですが、もしそうなら
「なぜ?」という、その理由が気になります。

2010年10月18日月曜日

伊勢の旅-13

内宮の別宮、「倭姫宮」です。
ご祭神は、文字通り、倭(やまと)姫命です。
この倭姫命は、
皇大神宮をご創建されるという偉業を成し遂げられた方です。
月夜見宮(つきよみのみや)は、外宮から徒歩10分。
皇大神宮別宮の月讀宮にお祀りされている月讀尊と同神とされています。

参道の脇に、とても立派な大木があります。
みなさん触れることでパワーをもらおうとされているようですが
私はあまり賛成できません。

今回、伊勢神宮の内宮外宮、そして
それぞれの別宮(瀧原宮以外)を参拝してまいりました。
祀られている神々が異なれば、当然神気の質も異なります。
参拝される際には、ぜひそれぞれの神気の違いも
感じ取って頂ければと思います。

伊勢の旅-12

風宮と土宮から続く参道の階段をのぼると
そこに豊受大御神荒御魂を祀る多賀宮があります。


こちらは外宮の第一別宮であり
、外宮正宮を眼下に望む高台にありますが
内宮のケースと同様に、荒御魂をお祀りすることで
外宮全体を守護しています。

伊勢の旅-11

橋を渡って右側が、土宮です。
ご祭神は、大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)。
そして左側に、風宮。
ご祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)。

風宮は、内宮の別宮「風日祈宮」とともに、元寇の際の霊験が有名です。

伊勢の旅-10

外宮は、伊勢神宮にあるふたつの正宮のひとつです。
ご祭神は、豊受大御神。そして相殿神として御伴神三座を祀っています。
境内には多賀宮(たかのみや)、風宮、土宮という別宮もあります。
こちらでもお神楽の後に、御垣内特別参拝をさせて頂きましたが
内宮とは異なる神気で、とても素晴らしかったです。
あらためて伊勢神宮の別格さを感じました。

伊勢の旅-9

伊雑宮は内宮の別宮ですが、志摩国の一宮でもあります。
一の宮とは、令制国(律令国)でもっとも社格の高い神社を指しますが
具体的には現在、個別に諸説ある場合もあり、
はっきりしていないものもあります。
この伊雑宮のご祭神は、天照大御神御魂。
こちらも諸説ありますが、9世紀の記録では天照大神御魂とされています。
また、伊雑宮は
瀧原宮とともに、天照大神の遙宮としても知られています。

伊勢の旅-8

古事記伝 本居宣長 真筆

伊勢の旅-7

正面右奥の駐車場近くに石碑があります。
こちらは国学者・本居宣長翁の墨跡をもとに作られたものです。
大御神宮に詣でて
玉串大内人定津ぬし
の家にやどりてあるじ
によみてまいらす
宣長
神世より神の御末と
つたへ来て名くはし宇
治乃土公わが勢
以前、
松阪市にある本居宣長奥津墓を訪問したことがあります。
宣長の生涯を想いつつ、なんとも感慨深かったのを思い出しますが
すぐ横に平田篤胤の石碑がありました。
「なきがらは 何處の土に なりぬとも 魂は翁の もとに往かなむ」
篤胤は、宣長の生前一度も会ったことはありませんでしたが
没後の門人として加わろうとして宣長の実子である春庭に書簡を送っています。
それによりますと、
夢に宣長が現れて、師弟関係を結んだと述べていますが
ずいぶん無理のある話だと思いました。
ただ、前述の歌碑の歌を見ますと、
宣長に対する思慕が相当なものだったことは確かです。
35年間国学を学んだ自分から見ますと
篤胤の思想はとても受け入れ難いものですが。。。

伊勢の旅-6

次は、猿田彦神社です。
こちらは猿田彦大神を御祀りしています。
一般には、天孫降臨に際して、道案内をした神として知られていますが
国学的には、別の意味合いもあり、
私共にとってはとても重要な神です。
また、正面右側に佐瑠女神社という境内社があります。
こちらは天宇受売大神を御祀りしています。
この神は天岩戸の段でも登場しますが
天孫降臨の際に猿田彦大神と最初に対面した神です。
国学的には、鎮魂帰神の司神であります。

伊勢の旅-5


内宮を後にして、内宮別宮の一つ「月讀宮」へ。
こちらは4社が横並びになっています。

まず月讀宮に参拝し、
次に月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の順で参拝します。

ご祭神は、参拝順に言うと
(1)月讀宮(つきよみのみや)・・・月讀尊(つきよみのみこと)
(2)月讀荒御魂宮・・・月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
(3)伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)・・・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
(4)伊佐奈弥宮(いざなみのみや)・・・伊弉冉尊(いざなみのみこと)

月讀尊は、伊弉諾尊が
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に
天照大御神らとともにうまれました。
夜之食国(よるのおすくに)を治める事を職掌としています。


外宮の別宮「月夜見宮」のご祭神とご同神ですが
月夜見宮では、「月夜見尊」との表記を採用しています。
職掌(はたらき)は同じでも、やや意味(視点)が異なると思います。

伊勢の旅-4

風日祈宮御橋(かざひのみのみやみはし)を渡りますと
皇大神宮別宮のひとつ風日祈宮が右手に見えます。
ご祭神は、
級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)。
風雨を掌られると伝える神として知られていますが
この神々が一躍有名になったのは、元寇の時です。

蒙古襲来の文永・弘安の役の際、
この神々の霊験により、後年「神風」と言われた猛風が起り、
海上に襲来した敵軍10万の兵を全滅させ
我が国の存亡をかけた国難をお救いになったとのことです。

伊勢の旅-3

正宮を後にし、次に
私的には内宮一番のお気に入り「荒祭宮(あらまつりのみや)」へ。
こちらは正宮の真後ろに位置しています。
ご祭神は、天照坐皇大御神荒御魂。
つまり天照坐皇大御神の四魂の一つである荒御魂をお祀りしています。
「荒魂の勇(いさお)をもて、諸々の災いを祓い除き」というくらいですから
ある意味、四魂の中でもっとも強い力を持っています、
外宮ですと、正宮の正面高台に鎮座する多賀宮(たかのみや)が
外宮のご祭神の荒魂(豊受大御神荒御魂)をお祀りしています。
このように
四魂の一部を別途鎮祭するのは珍しいことではありません。

伊勢の旅-2

神楽殿でお神楽をお願いし、その後正宮へ向います。
今回は、御垣内(みがきうち)特別参拝ということで、
正宮(しょうぐう)正面左の入り口で祓いを受けて、
一路、正宮内の左の通路をまわり、中重鳥居をくぐり
「外玉垣御門内(とのたまがきごもんない)」へ。
そして
丸みを帯びた白い石の敷かれた「中重(なかのえ)」で
強烈な神気に浴しながら、特別参拝をさせて戴きました。
あたかも別次元かと間違うような
他の参詣者が誰一人いない特別な空間での参拝は感激ものでした。
来年1月の伊勢リトリートでは、
皆さんと共に今回と同様の御垣内参拝を予定していますので
お楽しみに。

伊勢の旅-1

伊勢に行ってまいりました。
まずは内宮から。
長い参道を歩き神楽殿へ向います。
土曜日で天候も良かったせいか、かなりの人出でした。
でも観光バスの団体は少なかったようです。

2010年10月15日金曜日

ヨーガの瞑想

キルタンクリヤについてその基本的なところを考察してきましたが
それが秘めているチカラを、正しく、全て引き出す為には
より深いレベルで、その原理や構造を知らなければなりません。
「ともかく頑張れば、必ず効果がある」と思い込むのは
まさに信仰の世界であり、それでは
自己催眠程度の効果しか期待できないでしょう。
ヨーガの瞑想は、とても深遠なものです。
聞きかじりで指導ができるほど幼稚なものではありません。
自分で、トコトンやり込んで、
まず、確かな手応えと、明確な効果と、原理的な確信を得てからでなければ
他人に指導することはできないと思います。
なぜなら
いま何が起きたのか?
その次はどうなるのか?
なぜそういう体験が起こるのか?
指導者は、
そのような問いに、答えなければならないからです。

求聞持法とキルタンクリヤ-6

空海の虚空蔵求聞持法について、5回にわたって考察してきましたが
ヨーガではどのような方法で脳力開発に取り組むのか?
今回はそれについて説明したいと思います。
ヨギ・バジアン師から習った高度なメソッドの中に
「キルタンクリヤ」というのがあります。
これは師が
最も重要なクリヤ&メディテーションのひとつに挙げているものです。
最初は基本形で練習しますが、その後は、
目的に応じてたくさんのヴァリエーションの中から幾つかを選択します。
動的なムドラー(印契)、複雑な脳内の内観、単音のマントラ操作により
脳に対して極めて精密な働きかけを行ないます。
これまで他流派の瞑想法(密教ヨーガ系)をいろいろ見てきましたが
このキルタンクリヤに匹敵するレベルのものは殆ど眼にしませんでした。
それほど高度かつ有効なメソッドだと言えます。
このメソッドの効果は、いくつも挙げられますが、たとえば
1.潜在意識のキズを修復する
2.脳の耐久性(集中などのストレスに対する耐性)を高める
3.脳内の情報伝達速度を向上させる(頭の回転が速くなる)
4.マルチタスク能力が向上する
5.脳と肉体のリンケージがバージョンアップする etc
また、チャクラ理論に沿って言うと、
基本形の場合、アジュナーと、サハスラーラの各チャクラということになりますが
応用系では、他のチャクラに対しても強い作用がありますし
また、クンダリーニのエネルギーを
より強く働かせるためにも大変役立つ技法なのです。
私には、虚空蔵求聞持法の経験はありませんが、空海の言う
「谷響きを惜しまず、明星来影す」と
「明星口に入り、虚空蔵光明照らし来つて」の双方に共通する部分、
つまり特殊な振動と明星を味わうことができました。
もちろん完全に一緒のものかどうかはわかりませんが
私的には、かなり近いものではなかったかと推察しています。

求聞持法とキルタンクリヤ-5

真言密教の秘法「虚空蔵求聞持法」はかなりの難行ではありますが
空海は、その自著によれば、20代前半で成就したと言っています。
残念ながら、
私は、虚空蔵求聞持法を一度も修行していませんが
その御次第書を見ながら、そして空海の体験談を何度も読み返し
一体何が起きたのか、ヨーガの視点から考えてみました。
まず、最初のポイントは、なぜ場所に拘ったのか、です。
修行場を決める為に、かなり各地を彷徨ったわけですが
その理由は、恐らく
修法を試みた際に、実感としての反応が乏しかったからでしょう。
それは空海が
単に修法を修了すればいい、と考えていなかったことの証だと思います。
手応えといいますか、脳に対する明確な働きかけが感じられなかったのを
「法」のせいにせず、その修行環境に原因を求めたのだと想われます。
もし、手応えのなさが「法」のやり方に起因すると考えたならば
転々と修行場を移動する必要はなかったわけですから。
そして第二のポイントですが、それは、
最後に、室戸岬の洞窟を選んだ理由です。
真言の音の反響が最も良いなどの点で、その形状が気に入ったのか?
それとも単に場所が問題ではないと、そこで気がついたのか?
その辺りはよくわかりませんが
私は、後者ではないかと考えています。
なぜなら、ヨーガ的には、脳に対する働きかけで重要なのは
耳から入る音や、物理的な空気の振動ではなく
あくまで、脳内の内呼吸と、体内の振動の操作等なので
空海も、それに気付いた可能性が高いと想うのです。
脳の特定の部位に、真言(マントラ)の振動を注ぎ込むには
いくつかの条件を整える必要があります。
1.サハスラーラとアジュナー・チャクラの位置を特定する
2.ムドラー(印)と脳のリンケージを確立する
3.脳内の内呼吸を制御する
4.眼球の角度の特定と、視神経の操作
5.声帯からアジュナー、サハスラーラまでの振動の伝達(骨伝導と体液伝導)
これらは、最初の段階として取り組むべき5点ですが
当然のことながら、目的別にたくさんのヴァリエーションがあります。
いすせれにせよ脳の任意の部位を「動かす」時に、
リアルな実感がなければ、結果が伴うことなどないのです。

求聞持法とキルタンクリヤ-4

入唐半年にして、ようやく恵果の元を訪れた空海ですが
6月に胎蔵界、7月に金剛界の灌頂を受けることができました。
その灌頂の際、彼の投じた華は、
2度とも曼陀羅の中央に位置する大日如来の上へ落ちました。
これは、両界の大日如来と結縁したことになるのですが、
滅多にないことです。
その場にいた恵果の喜ぶ顔が眼に浮かぶようです。
そして伝授も異例の速さで進み、
わずか半年で伝法の印信を与えられました。
出会ってから半年後の12月半ば
空海への運命的な写瓶が終わるのを待っていたかのように
恵果は帰幽します。
そして、恵果の葬儀に際しては多くの弟子達を差し置いて、
空海が恵果の墓碑銘の撰文に、筆を取りました。
これは、1000人を超える恵果の弟子達が
彼を正統な後継者として認めたことを意味します。
「虚しく往きて実ちて帰る」
空海が帰国した時のこの短い言葉に、
彼の並々ならぬ自信が感じられます。

密教は、難解さにかけてもかなりのものです。
それを、言葉の壁を越えながら、
わずか半年でマスターした空海の天才度は
本当に想像を超えています。
それが入唐前の、虚空蔵求聞持法の効果だというなら
この法は、まさに人間の脳を進化させるものなのでしょう。
そこで、この虚空蔵求聞持法が、空海に何をもたらしたのか
少し時間を戻して、
室戸岬での出来事を検証してみたいと思います。
空海の弟子が編んだ「御遺告」によると
「土佐の室戸門崎に寂留す。
心に観ずるに、明星口に入り、
虚空蔵光明照らし来つて、菩薩の威を顕す。」
と、書かれていますが、これは
「谷響きを惜しまず、明星来影す」
という「三教指帰」の記述よりも、さらに具体的な体験談です。
ここでのキーワードは
「明星口に入り」と「虚空蔵光明照らし来つて」のふたつです。
これによって「明星来影す」が
単に夜空に明星が現れた、
というだけの意味でないことがわかります。
さらに「明星口に入り」ということですから
「光明」も頭の中を「照らし」ていたことになります。
これがヨーガのチャクラ体験に酷似していることから
アジュナーだ、いやサハスラーラだ、と
一部でいろんな解釈がされて来ました。
確かに、そう思える所も多々あります。
ですが、密教側からの解釈を読めば読むほど
私の関心は、
求聞持法とヨーガの、技術的な共通点に向かってゆきました。
求聞持法をヨーガの側から原理的に解明できないだろうか?
それがクンダリーニ・ヨーガの脳力開発法を研究する切っ掛けになったのです。
ヨーガには、メディテーションが数百種類あります。
それらは目的別にセットされ、構造的にも大変優れたものですが
特にその中の幾つかは、明らかに脳を変える力を感じさせるものでした。
そこで私は、学び得たヨーガの技術だけで
「谷響きを惜しまず、明星来影す」と
「明星口に入り、虚空蔵光明照らし来つて」を再現できないだろうか
と真剣に挑戦してみました。
そして終に、然るべき体験を得
自分なりの仮説を立てることができたのです。

2010年10月14日木曜日

求聞持法とキルタンクリヤ-3


ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
「虚空蔵求聞持法」とは、特定の環境で、次第書をもとに、
100日間かけてこの虚空蔵菩薩真言を100万回唱えるというものです。

真言それ自体に、特別な振動を起こす秘密があるというなら
和風の読み方ではなく、
インドのオリジナルな発音でなければならないと思います。

ですが、空海が修行したのは、中国に渡る前なのです。
その頃の空海は、まだ正式に出家もしておらず、私度僧の立場でした。
果たして彼は、正確な発音で真言を唱えることができたでしょうか? 
804年の入唐直前に得度を受け、期間20年の予定で留学した彼は
同年12月23日に長安に到着し、翌年2月に西明寺に入ります。
ところが彼は、最初の4ヶ月間、本来の目的である密教ではなく
北インド出身の僧、般若三蔵に師事し、
サンスクリット語と南インドのバラモンの哲学等を学びました。
福州長渓県赤岸鎮に漂着した時に遣唐使ではなく空海が、
福州の長官へ嘆願書を代筆しているのをみても
彼が中国語に堪能だったことはわかりますが
サンスクリット語までは、入唐前に学習できなかったのでしょう。
ですので御厨人窟(室戸岬の洞窟)で求聞持法の修行をしていた時に
正確な真言の発音ができたかどうかは疑問です。
そして同年6月、彼はついに青龍寺に恵果阿闍梨を訪ねます。
恵果は、不空の直弟子で、当時の密教界を代表する高僧でした。
空海の書いた「御請来目録」によれば、「偶然、遇った」とされていますが
真の密教を求め、苦労して入唐した彼が
当時の最高権威を知らなかったとは、とても考えられません。
恵果は彼を見て「喜歓」し
「我、先ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ久シ。今日相見ル。大好、大好」
と言いました。
そして、これまで法を伝えるに相応しい人がいなかった、といい
自分は長く生きられないからと(同年12月に病没)
すぐに、伝法を始めたのです。
「必ズ、須ク、速ヤカニ、香花ヲ弁シテ、灌頂壇ニ入ルベシ」

2010年10月13日水曜日

求聞持法とキルタンクリヤ-2

「虚空蔵菩薩求聞持法」は
虚空蔵菩薩の真言を1日1万回、100日間で100万回唱える
というのもかなり大変な修行ではありますが、
ただ唱えるだけならば、覚悟を決めて取り組めば、
何とかなりそうな気がします。

でも、連日朝から晩まで、単に真言を唱えているだけで
天才的な脳に生まれ変われるとはとても思えません。
「虚空蔵菩薩とは、無限の智恵をもつ菩薩なのだから大丈夫!」
と言われても「信ずる者には功徳あり」では信仰の領域であって
信仰心のない私などは、中々納得がゆきません。
「斯く斯く然々の原理で、脳がこう変わるんだ!」
と、理屈で納得できれば、直に頷くこともできますが
残念ながら、そのような説明もついぞ聞いたことがありません。
ところでこの法は
特に記憶力の増進を祈念する修法として知られています。
コピー機もコンピューターもない時代に
短期間で、膨大な経典を整理し、暗記し、かつ理解するのには
とても人間業とは思えないレベルの能力が必要だったと思います。
脳力には、さまざまな要素がありますが
あの時代ですから、まずは、記憶力が求められたのでしょう。
虚空蔵菩薩の真言にどのようなチカラが秘められているのか
それについては何とも言えませんが、
100万回も続ければ少なくとも、
その方の脳は酷使に耐えるだけの相当な耐久力がついたことでしょう。
真言それ自体に、特別な振動を起こす秘密があるというなら
和風の読み方ではなく
インドのオリジナルな発音でなければならないと思います。
昔ヨギ・バジアン先生に、マントラを習った時
発音や体内操作等々、とても細かくて精密な指導を受けました。
ですから、虚空蔵菩薩真言も、
オリジナル通りのきちんとした発音でなければ効果はないでしょう。
ところが、空海が修行したのは、中国に渡る前なのです。
ある沙門から伝授され、室戸岬の洞窟に籠もって修行したわけです。
その頃の空海は、果たして
正確な発音で真言を唱えることができたでしょうか? 

2010年10月12日火曜日

求聞持法とキルタンクリヤ-1

真言密教の秘法に
「虚空蔵菩薩求聞持法」というのがあります。

これは空海が成就したとされる特殊な脳力開発法ですが
難易度の高さも尋常ではなく、
他の修法のそれを遥かに越えています。
虚空蔵菩薩とは、
そもそも無限の智恵と慈悲を持った菩薩であるため
この法は、特に記憶力の増進を祈念する修法として知られています。

表面的には、虚空蔵菩薩の真言を
1日1万回、100日間で100万回一定の作法で、
印を組みながら唱えるわけですが
ただ一心に唱え続ければ、法が成就するというものではありません。

空海は中国に渡る前に、
この法をある沙門から伝授されました。
そして、各地を転々としたものの、
最後に室戸岬の洞窟(御厨人窟)に到りそこに籠もって修行しました。

彼の著作である三教指帰によれば
行が成就した時のことを
「谷響きを惜しまず、明星来影す」と記しています。

これはヨーガ的には、
恐らくアジュナー・チャクラの開眼と考えられますが、いずれにしても、
天才が命懸けで修行した結果到達した優れた境地だといえます。
私は真言宗醍醐派の師からいろいろ伺いましたが
残念ながら、自分で修行したことはありません。

ヨーガと求聞持法を両方修行していれば、
比較することもできたのですが。

2010年10月7日木曜日

ジニャーナ・ヨーガ

ウパニシャッドの瞑想つまりジニャーナ・ヨーガとは、
師の傍らに坐り、師のまとったサマディの気質と同一化する瞑想です。
従って一人で行なうものではありません。

実際にやってみますと
普通ではありえないようなヨーガ体験がしばしば起こります。
初めての方はかなり驚かれることでしょう。
たとえば、最初に起こるのが「場の変化」です。
自分を取り巻く大気が波立ってきたり、空間が歪んできたり、
その空間が螺旋状に大きく回転し始めたり、
多くの方は「一体何が始まったんだろう?」と思うようですが
これはプラーナーヤーマで外的な五気が大きく動いた結果です。
五気には、生気系と光輝系がありますが、
最初は生気系だけ、次に生気系と光輝系の両方、
そして光輝系だけという具合に動かしてゆきます。
(慣れれば最初から光輝系だけになります)

「場の変化」の次は、「皮膚脱落」です。
この「皮膚脱落」は禅でよく使われる言葉ですが、
出典は大乗涅槃経です。
皮膚は、言うまでもなく、肉体の内と外を分かつ「境」です。
ですから、皮膚脱落とは、その境がなくなることを意味します。
技術的には、自分が生きていることを深く実感し、
ラーマナ・マハーリシの言うように、
ただそれを見守っているだけなのですが、
ある瞬間から突然「境」がなくなってゆきます。

先の「場の変化」もそうですが、
ジニャーナ・ヨーガの瞑想は、新たな気付きと驚きの連続です。
参加者の方々には毎回、何が起きるのか予測もつかないでしょう。
それがウパニシャッドの瞑想なのです。
マントラも観想も何もない、静寂と沈黙の世界です。

肉体感覚が完全になくなるのは、
真我独存に近づいた時ですので、
ここでは単に境が消失して、
どこまでが自分の肉体なのかわからなくなっている程度ですが、
それでも空間に融けてゆく感覚はとてもリアルに感じられます。

これは禅の世界ではしばしばあることですし、
また私と瞑想された方々の多くが体験されています。
言わば、ここがヨーガ瞑想のスタートラインなのです。

この皮膚脱落時に、
前述の光輝系の五気の波を、自分の中に透過させますと、
真我の浄化が可能になります。

真我が浄化されれば、
輝きも増しますし、透明度も高まります。
ヨーガスートラでは、
自身の真我(プルシャ)を観照することを説きますが、
その為には幾つかの条件を満たす必要があります。

①真我を身体の中府(鳩尾辺り)に安定させること
②真我の輝きが一定の強さ以上であること
③肉体感覚がほとんどなくなっていること
④心の作用の止滅がある程度達成されていること etc

以上が揃えば、自分で自分の真我を観ることができます。
実践せずに頭で考えているうちは難しく思えますが、
各段階で正しい理解と技術を用いれば、
それ程困難なことではありません。

「瞑想体験は、単なる思い込みではなく、
実体験に裏付けられたリアルなものでなければならない!」
それが私の結論です。 

2010年10月6日水曜日

真我を観る!-3

「ウパニシャッド」とは
昔から「傍らに坐る」という意味だとされてきましたが、
30年位前から「ウパース」が語源だと主張する学者が増えてきました。
ウパースとは「同一化」という意味です。
アートマンとブラフマンを同一化させるのがウパニシャッドの目的なのだから
意味的にも合致している、ということなのでしょうが、
長年ヨーガを実践している側からすればやや異論があります。
私は、この問題を考える時、
釈迦と摩訶迦葉にまつわる「粘華微笑」という話が参考になると思います。
ある日釈迦はいつもの様に霊鷲山の頂上で説法の座に着きました。
ですが、その日に限って一言も語らず、傍らの華を一輪拈り取り、
沈黙の内に聴衆の前にさし示しました。
弟子達は何のことだか全く意味がわかりませんでしたが、
摩訶迦葉ひとりだけは、静かに微笑みました。
その時釈迦は、
「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。
教下別伝 、不立文字、摩訶迦葉に付嘱す」と言ったとされています。
以心伝心の劇的な伝法が、まさにこの瞬間に起きたわけです。
でもここで考えなければならないのは、
何故摩訶迦葉だけが法を得られたか?です。
釈迦の傍らにはたくさんの弟子達が坐っていました。
でも釈迦の悟り(サマディ)に同一化できたのは、
結局、摩訶迦葉だけだったのです。
ただ「傍らに坐る」だけでは何も起きないし、
傍らに坐るに値する人、つまりグルがいなければ
「同一化」する対象がいないので、やはり何も起きません。
従って、「傍らに坐る」と「同一化」は、
同時に満たされなければならない条件だったのです。
つまりウパニシャッドの瞑想とは、グルの傍らに座り、
さらにグルのまとったサマディの質と同一化するものに他なりません。
そして、それこそがジニャーナ・ヨーガなのです。
道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。
「端坐参禅を正門とせり」「自受用三昧、その標準なり」。
参禅とは師家についてその傍らに座り坐禅を組むことであり、
「自受用三昧」とは受動態(同一化)を本義としています。
この事からわかるように、座禅とは(見性するまでは)
一人で組むものではないのです。
道元はまさしくウパニシャッドと同じスタンスだったといってよいでしょう。
ところで佐保田鶴治博士の著書にもあるように、
グルの指導はマンツーマンを原則としています。
「対個人的に一対一の形でなされるべきもの」(「ヨーガの宗教理念」)。
なぜそうなるのかと言えば、
グルの指導は、弟子の真我の状態をチェックして、
その時々に必要なサマディの質をグル自らがまとい、
それに弟子を同一化させることで霊性の向上を図るからです。
サマディには180以上の階梯がありますので、
それらを目的別に使い分けることになります。
(このように一対一の時はカスタマイズして対応しますが、
もし大勢を相手にする時は、最大公約数的な考え方を採用します。
但しこの場合、全員にわからせるのは難しいので、
ラーマナ・マハーリシのような偉大な聖者でも、
傍らに坐った人のうち数人だけにヨーガ的神秘体験が起こります。)
ところで、禅でも、老師の指導は一対一の対機説法が基本です。
禅には「鑑機三昧」という禅定(サマディ)があります。
これは指導を行なう際に
「あらかじめ相手の機根・能力を観察する為に入る禅定」です。
つまり老師は、
まず鑑機三昧に入り、相手の真我(仏性)の状態を調べ、
それに即した対応を採るわけです。
これはウパニシャッドに於けるグルとほとんど同じやり方だといえます。
自分の真我は、心の作用の止滅後に
アートマンそれ自体の「顧る働き」によって観照できますが、
他人の真我は、「鑑機三昧」というサマディに入らないと観照できません。
つまり自他の「真我を観る」ことが出来て初めて、
顕教ヨーガの指導者になれるわけです。

真我を観る!-2

道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。
「参見知識のはじめより、さらに焼香禮拜念仏修懺看経もちゐず、
ただし打坐して身心脱落することをえよ。」
祗管打座つまり坐禅こそが正伝の仏法であり、
読経も礼拝も全て用いない、と宣言しています。
そしてただ声をあげてお経を読んでいるのは、
春の田んぼのカエルが昼夜暇なく鳴いているのと同じで 「益なし」
と断じています。
実に確信に満ちた見解です。
私の尊敬するクリシュナムルティも、
「クリシュナムルティの瞑想録」(平河出版)において、
「瞑想は言葉を反復することでも、
まぼろしを目のあたりにすることでも、
あるいは沈黙を養うことでもない。
数珠や経文は、精神の雑音を静めはしても、
結局のところ一種の自己催眠にすぎず、
催眠薬を口にするようなものである。」
と明言しています。
(「数珠」とは、数珠を括りながらマントラを繰り返し唱えることの意)
マントラや観想などのデコレーションが多ければ多いほど、
本来のサマディから離れてゆきます。
彼は同著でさらに、
「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、
自己閉鎖的で破壊的なものである。」と述べています。
30年位前、チベット密教の奥義書「マハムドラーの詩」を読んだ時、
正法眼蔵と同じことが書かれていてとても驚きました。
「ミラレパ」(おおえまさのり訳)に掲載されていますが、
「マントラ(真言)やパーラミーター(至彼岸の菩薩行)の行、
スートラ(経典)や訓戒の示すところ、宗門や経典の教え 
そは自性の真理の実現をもたらすことなし」。
私も観想を多用する真言密教の出身なので実感していますが、
入我我入観などでいくら仏と一体になったと思い込んでも、
クリシュナムルティの言う自己催眠のような気がしてなりませんでした。
「天台小止観」や「摩訶止観」、
そしてツォンカパの「菩提道次第論」を見ても、
止観が必須だと説かれています。
この止観とは、まさにヨーガスートラのカリキュラムそのものです。
つまり止とは、「心の作用の止滅」であり、
観とは「純粋観照」に他なりません。
禅でも全く同じスタンスを採用しています。
ツォンカパも「先に止住を達成してから、
それに依って勝観を修習する」と書いています。
ですから、止観は順序が決められており、
「止(シャマタ)なくして、観(ヴィバシャナ)はない」ということなのです。
全ての経典の中で釈迦の言葉が最も多いとされる
最古層の原始仏典「スッタニパータ」の最終章では、
「信仰を捨てなければ彼岸(サマディ)に至ることはできない」
と説かれています。
佐保田鶴治博士の「ヨーガの宗教理念」には、
あるヨーギがどうしても信仰を捨てきれず、
見かねたグルがガラスの破片を彼の眉間に突き刺して、
信仰心を切り離そうとした逸話も出てきます。
(彼はその後ようやくサマディに入ることができました。)

要するに、観想や信仰等、余分なものがなくならないと、
本来のサマディに入ることはできないということです。
私が真言密教を離れたのは、この辺りの原理を知ったからですが、
護摩行をはじめとする修法や、生きるか死ぬかギリギリの荒行体験は
ムダではなかったと考えています。
自分で命懸けの修行もせず、
師の言葉を適当につなげて知ったかぶりをするのは簡単ですが、
修行とは、先師の悟り体験を
自らの悟りを以って検証する作業でもあるのです。
それが本来の「瀉瓶(奥義を師から弟子にもれなく伝えること)」なのです。
ハワイへ行った事もない人間が、
ガイドブックだけ、或は行った人(師)の言葉だけを頼りに、
さも自分が行ったかのように語るのは、間違っていると思います。
できないことを、できたように言わないことです。
「知るを知ると為し、知らずを知らずと為す。是知るなり」(「論語」為政篇)
ところで、サマディには180以上の階梯がありますが、
これらは目的別のエネルギーに満ちています。
自分の真我は、心の作用の止滅後に
アートマンそれ自体の「顧る働き」によって観照できますが、
他人の真我は、「鑑機三昧」というサマディに入らないと観照できません。
いずれにしましても、前述したように、「観」は「止」を達成してからの話です。
蛇足ですが、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の「魂の科学」によれば、
クンダリーニ(生気系)覚醒後、「暗性優位の三昧」に入るとの事です。
ヨーガスートラやウパニシャッドのサマディとはかなり趣が異なりますが、
私は、密教ヨーガは別の観点から役立つと考えています。
それは2系に跨る「五気の制御」です。
(注・・密教の真言陀羅尼/マントラには、宗教的&現世利益的な働きがあります)

真我を観る!-1

瞑想というと
何かのイメージを思い浮かべたり(観想)マントラを唱えたり、
集中を繰り返したりと作為的な努力に専念することだと
思っている方が少なくありません。
ですが、それは
ヨーガスートラに於ける「瞑想」とはかけ離れたものです。
そもそも「瞑」とは
瞑目というように「閉じる」「閉ざす」という意味なのです。
ですから瞑想とは、「想」つまり
心の「相(置かれた状態、表れ)」を閉ざすことを意味します。
それは
ヨーガスートラに於ける「心の作用の止滅」
そのものだと言っていいでしょう。
ヨーガスートラは
「心の作用が止滅されてしまった時には
純粋観照者である真我は
自己本来の状態にとどまることになる」
と説明しています。
つまり真我には、
純粋観照者としての働きがあるとうことです。

心の作用が既に止滅しているわけですから
ここでは集中も観想もマントラもありえません。
従ってヨーガスートラの瞑想とは、
自然無為の純粋観照の世界なのです。
さて、この純粋観照者である真我ですが、
一体何を観照するのでしょうか。
真我は無形ですから、
当然「肉眼で見る」という意味ではありません。
結論を言うと、
真我が純粋観照するのは、
まずは真我それ自身なのです。
この「顧(かえりみ)る」という働きは、
アートマンに元々備わっているものです。
「真我は観えるのか?」と、
疑問に思う方もいることでしょう。
ですが、密教ヨーガならいざ知らず
ウパニシャッドの理想を実現する為に作られた顕教ヨーガにおいては
修行者が当然通過すべき「初歩的な関門」なのです。
ですからヨーガの入門書であるヨーガスートラに登場するわけです。
通常、真我は、
アートマンとプルシャの訳語として使われています。
古ウパニシャッドによれば、両者の定義は明らかに異なりますので
もしもこれらを混同していたら、ヨーガの本質は永遠に理解できません。
同じだという人は、
真我を体験(観照)していない、と告白しているようなものです。

アートマンは、プルシャを構成する五つの要素の一つであり
その中心力を以って、他の四要素を統括しています。
これら五つの要素は、古ウパニシャッドによれば
白、赤、黄、緑、青の5色の輝きをもっています。
ですから真我を観ますと
この5色が混合した輝き(色彩)になります。
そして、人それぞれ各要素のバランスが異なる為
真我の輝きに個別性があるのは勿論、また
同じ人でもその時々の状態によって変化するので
いつも同じに観えるというわけではありません。
正確に言うと
「アートマンが、それ自身を含むプルシャを純粋観照する」
ということです。
古ウパニシャッドでは、それを
「鏡のなかに映る像のように自己の中にみられる」と表現しています。
確かに、自分で体験しますと
「全くそのとおりだ」と、その表現の秀逸さに頷けます。
また古ウパニシャッドには、観え方の階梯として
「ぼんやりと」「不明確に」「くっきりと明確に」と三段階記述していますが、
実際には、この「解像度」に加えて
真我の輝きの「大きさ」と「強さ」という階梯も忘れてはなりませんし
さらに言えば、垢染の度合いによって「透明度」も異なります。
ヨーガの瞑想は、とても深遠な世界です。

ヨーガスートラの説く
「心の作用の止滅、純粋観照、真我独存」は
瞑想の入り口に過ぎません。
自分の真我が観えてから、真の瞑想が始まるのです。

クンダリーニ-4

クンダリーニは生命の根源的な力を指す用語ですが
その真実についてはほとんど知られていません。
一般にクンダリーニの覚醒というと
光輝系ではなく生気系を指していますが
これは単に体内のエネルギーが大きく動いたというだけなので
ボディとマインドには一定の作用が及びますが
スピリットに対してはほとんど影響はありません。
ですから大きな期待をしているとガッカリすると思います。
他方ジニャーナ・ヨーガなどの
顕教ヨーガによる光輝系クンダリーニの覚醒は
ヨーガの核心ともいえるサマディに直結します。
「クンダリニ」の著者アランデール師は
クンダリーニを4段階に分けて説明していますが
この一連の光輝系クンダリーニの覚醒は
まさに霊性の浄化と解放への階梯に他なりません。

真我独存を経て、プルシャが身体から離脱
そして無(宇宙の最高原理)と合一し、さらに
プルシャから分離されたアートマンが、
無と融合するまでのプロセスなのです。
紀元前8~9世紀頃から編纂された
古ウパニシャッドに一貫している思想は
アートマンとブラフマンのウパース(同一化)です。
カタ・ウパニシャッドによれば
「ウパニシャッドの知識とヨーガの全規定を得て、
ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越する」
と説明されています。
ですから、真我独存を目標とするヨーガスートラは
言わばウパニシャッドの準備段階程度を
説明する文献に過ぎません。
実際に取り組めばすぐわかる事ですが
実は真我独存してからが長い道程なのです。
アランデール師は
個人、地球、太陽、宇宙の
4段階のクンダリーニを解説していますが
これは実に適切な分類だと思います。
瞑想が深まり、光輝系のクンダリーニが覚醒を迎えますと
肉体感覚が消失し、心の作用が止滅します。
その時、真我本来の働きである純粋観照が起こり、
自らの真我を観照します。
観え方には3段階ありますが、
瞑目したままで太陽のような強い輝きを
はっきりと見ることができれば正解です。
何とも素晴らしい光なのできっと驚くことでしょう。
そしてその無重力の空間に浮かんでいるような真我を
自在に動かしさらに安定させることができれば、
真我独存の完成つまりヨーガスートラの卒業となります。
でもこれは先の4分類の最初の段階に過ぎないのです。
次は、スシュムナーの中に安定させた真我(プルシャ)を
自身から離脱させなければなりません。
そしてウパニシャッドの階梯へと進むわけです。
つまりアランデール師の4段階とは
ウパニシャッドの階梯(ステージ)ごとに働くエネルギーが
質的に異なる、ということを説明したものなのです。
従って、各ステージのサマディも当然多種多様なものとなります。
ヨーガスートラの説く無種子三昧などは
単なる準備段階に過ぎないということです。 

2010年10月4日月曜日

クンダリーニ-3

クンダリーニには、質的に、生気系と光輝系の2種類があります。
一般に知られるクンダリーニは生気系の方ですが
こちらは熱や電気系のエネルギーとして体感できます。

そもそもクンダリーニとは生命の根源的な力を指す用語ですが
その活動のステージは、アランデール師の説くように、4段階にわかれます。

ところで、岸本秀夫博士によれば
リグ・ヴェーダの終期頃から散見されるタパス(TAPAS=熱)という言葉が
ヨーガ的行法の前身に深い関わりがあるということです。
たぶん、人間が死ぬと身体が冷たくなるので
熱が生命力に直結すると考えたのでしょう。

密教ヨーガの体系では
性力~精力~生力の順でエネルギーを増強・昇華してゆきます。
これはある意味、中国の「精・気・神」の考え方にも通ずるものです。

ハタ・ヨーガやクンダリーニ・ヨーガなどの密教ヨーガは
広義のシャクティ派に属しますので、
様々なアーサナ等を通じて特に生理的な側面から
タパスにアプローチしようとしています。

しかしながら古ウパニシャッドの時代には、中村元博士も言うように
ジニャーナ・ヨーガやラージャ・ヨーガ等の顕教ヨーガが主流でしたので
現在行なわれているようなヨーガ体操の類はほとんど採用されていませんでした。
ですからヨーガスートラやそれ以前の代表的な古ウパニシャッドには
チャクラやクンダリーニといった言葉は全く登場しません。

では顕教ヨーガで、どのようにして生命力を制御していたのかというと
肉体的鍛錬以外の特殊な方法で、プラーナなどの五気を
動的&静止的、内部的&外部的、そして統合的&解放的に制御する事で
自らの生命(真我)を支える各要素に、直接働きかけようとしたのです。
それはヨーガスートラやウパニシャッド等に明らかです。

2010年10月3日日曜日

クンダリーニ-2

クンダリーニはエネルギーの質的な違いから
生気系と光輝系の2種類に分かれます。
生気系クンダリーニの覚醒を目指す密教ヨーガに対して
ラージャ・ヨーガやジニャーナ・ヨーガのような顕教ヨーガは
最初から「光輝状態の始まり」を目指します。
つまり密教ヨーガに依存することなく、直接究極を目指すわけですが
これはラーマナ・マハーリシやクリシュナムルティのような
偉大なグルがいる事が前提となります。
ですので、彼らが没した今
密教ヨーガを活用して準備を整えるのはやむをえない事でしょう。
さてこれら2種類のクンダリーニは
それらが活動する領域と働き(性質)の相違から
さらに4ステージに分類されます。
これは私の知る限り、
G・S・アランデール師だけが著述しています。
実際にこれら4ステージ全てを体験しますと
誰もがきっとクンダリーニの本質に驚愕するはずです。
真のサマディとは何か
真我の到達する究極とはどのような境地なのかetc
光輝系のクンダリーニ覚醒を通して、
ヨーガの真実を知ることになります。
そしてヨーガスートラの説くサマディなど
単なる準備段階に過ぎないと覚るはずです。
ところで、生気系と光輝系の2種類を比較体験すれば
生気系のクンダリーニがどの程度のものかがわかります。
つまり生気系のクンダリーニ覚醒は
ヨーガのゴールではないのです。
それは光輝系をサポートする役割を担っているに過ぎません。
結局のところウパニシャッドのゴールとは
この光輝系の第4ステージに他ならず、
そこに至る手段としてヨーガの存在意義があるのです。
故に私は、アランデール師の著書が
クンダリーニについて最も信頼性の高い文献だと思います。
よく知りもせずクンダリーニが危険だとか言う方々は
何が何でも「クンダリーニ=危険」と決め付けたいのでしょうが
私はこの35年間、密教ヨーガと顕教ヨーガを併せて実践された方で
おかしくなった人を一人も知りません。
要はやり方次第ということです。
よくわからないで賛美するのも、また
むやみに怖がらせるのも共に間違っていると思います。
つまり、顕と密のバランスが大事なのです。

2010年10月2日土曜日

クンダリーニ-1

巷間のヨーガ関係の書物では、
チャクラと共にクンダリーニについての言及を多く見受けます。
生命の根源的なエネルギーであるとか
尾てい骨辺りにとぐろを巻いている「蛇の火」だとか
さまざまな説明がされていますが、
自らの深い体験をもとに
研究と研鑽を積み重ねた記述は稀だと思います。
クンダリーニについては、賛美系から警告系まで
諸説様々でとてもわかり難いという声が多くあります。
クンダリーニには、そもそも
質的に生気系と光輝系の2種類があるわけですから
当然、その顕れ方も一つではありませんし
またそれぞれが多様な側面を持っているのも事実です。
実際のところ、きちんと制御すれば何も問題はないのですが
誤った練習方法を続けた場合には
気功や禅等と同じく身心上の「偏差」になることもあります。
時折クンダリーニについて参考になる文献がありますかと
質問を受けますので、ここで3冊ご紹介したいと思います。
「魂の科学」 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著
「クンダリニー」 G・S・アランデール著
「チャクラ」 リードビーター著
私見ですが、各書ともに一長一短があり
卓見だと思うところも沢山ありますが、
同意できないところもあります。
ただ本格的に研究されたい方には、
多くの学びが得られることでしょう。
「魂の科学」の素晴らしい所は、
クンダリーニの覚醒について
「生気の上昇」と「光輝状態の始まり」
の2種類があると述べている点です。
通常のヨガ本では、「生気の上昇」を以って
クンダリーニの覚醒と説明しているようですが
実際には
「魂の科学」にもあるようにその程度では大したことはありません。
それによって得られるものは
暗性優位の三昧と言われる低レベルの三昧に過ぎず
体力は増強されても、
マインドとスピリットに対する働きかけは殆ど期待できません。
実際体験してみれば、期待が大きかっただけに
ほとんどの方がガッカリされると思います。
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの説くように
密教ヨーガの限界がどこにあるのかを自覚することでしょう。

2010年10月1日金曜日

ヨーガのアイデンティティ

先日Spiritという映画を見ていましたら
武道の流派の優劣について語られていました。
「あらゆる武術に優劣高低はありません。
使うものの技量の差だけです。
試合を通して、己の真の姿に向き合う。
本当の敵は恐らく自分自身なのです。」
この映画は、
実在した伝説の武闘家、霍元甲を主人公にした作品です。
欧米列強の植民地と化した当時の上海で
1910年に開催された史上初?の異種格闘技会を舞台に
様々な人間模様を描いています。
主演のリー・リンチェイ(李連杰)は、
1982年のデビュー作「少林寺」以来数多くの作品に出演していますが
私が観た中ではこの作品が一番好きです。
ところで、よく質問されるのですが
ヨーガの流派についても同じだと思います。
OO先生直伝だからとか、1000年の歴史があるとか
ヒマラヤ聖者のヨーガだとか、それこそいろいろありますが
ほとんどのヨーガは、たとえ登山口は異なっていても
同じ山頂を目指して技術が体系化されています。
ですからまじめに取り組めば、
その流派の道筋に従って山頂近くまで到達するはずなのですが
実際に登頂できるかどうかは、本人の力量にかかっています。
まさに「使うものの技量」如何なのです。
前述の会話は、リー・リンチェイ演ずる霍元甲と
最後に戦う日本人の武道家(中村獅童)との間で交わされたものですが
最初は「茶」の話から始まります。
茶の品位に優劣があるかという問いに対して、リー・リンチェイは
「同じ自然の中で育つものに優劣はないのです」
「思うに、茶の優劣は茶自体が語るものではなく、
人間が決め各人の好みに左右されます」
と、応えます。
人は常に優劣を決めたがる生き物なのかもしれません。
そして自分で決めたその物差しに囚われて
本来の姿を見失っているのです。

千招を知るをおそれず

「千招を知るをおそれず、 一招に熟するをおそれよ」
招というのは「技」という意味です。
これは中国武術の世界で言われている格言なのですが
つまり、本当に極意をつかむ為には
千の技を覚えるよりも、一つの技に習熟し、
その根本原理を把握して
自在に使いこなせるようになりなさい、
ということなのです。
これはヨーガに於いても同様です。
技法のコレクターのようになってしまうと、
結局本質的な部分を理解することなく
大成できずに終わってしまいます。
火の呼吸メソッドには、実に数多くの技法がありますが
順序としては、最初に段階的な幾つかのセットメニューを通して、
呼吸法やムルバンドゥなどの基本的な技法を練習し
第2ステップとして、内観の技術をしっかりと身につけて、
いろいろな内的体験を得、その後に
さまざまなセットメニューに進むのが
修得への一番の早道だと思います。
それはまさに「一招に熟する」ことを意味します。
一招に熟するならば、つまりヨーガの内観に習熟するならば
その後沢山のエクササイズ、クリヤ、メディテーションを学んだ時に、
短期間でその意味や原理、本質を理解することが出来ます。
もしも逆のルートになりますと
(「千招を知る」ことを優先してしまいますと)、
結局、何倍もの時間が必要になります。
なぜなら
ヨーガの多くの技法を学習する事によって(千招を知る過程で)、
間接的に内観を得ようとしますと、
たくさんの時間が必要になるからです。