2010年11月30日火曜日

雪景色と言えば

今年4月20日に行った黒部ダムからの景色です。
風があったので少し寒かったですが、何とも絶景でした。

プラーナヤーマ

世の中には、呼吸法といわれるものが数多くあります。
ラジオ体操の深呼吸から、ヒマラヤ(?)の秘伝の呼吸法まで様々ですが
その多くは外呼吸主体で形骸化しているように見受けられます。

もしもラジオ体操の深呼吸のようなレベルであれば
わざわざ時間と費用をかけて習う価値はないでしょう。

プラーナヤーマとは
単に吸ったり吐いたりする呼吸法を意味するものではありません。
佐保田先生も
「調気法プラーナヤーマは呼吸法と同一ではない。」
と述べておられます。(「ヨーガ根本経典」P111)

そしてプラーナとは
「身体のなかと外の世界にある生命のエネルギー」であり
「これをコントロールするのが調気である。」と言われています。
つまりプラーナヤーマとは
この内外のプラーナを制御するために開発された技法なのです。

古来プラーナ気とは、
狭義では体の中の五気のひとつとして知られてきました。

・プラーナ気
・サマーナ気
・アパーナ気
・ウダーナ気
・ヴィアーナ気

しかしながら元々は、
大自然に偏在する「気」を総称するものだったのです。
ですからプラーナヤーマは、身体内部もさることながら
自分の周囲の大気にも質的な変化を起こすものでなければなりません。

形骸化した呼吸法を操って自己満足に浸っているようでは
プラーナヤーマの本質は全くわからないでしょう。

つまり大気の気質の変化を客観的に確認できないようでは
真のプラーナヤーマとは言えないのです。

もちろん参加者の全員が例外なく体感できるとは言いませんが
少なくとも、7割以上の比率(人数)で体験させることができなければ
指導者自身のプラーナヤーマが出来ているとは言えないでしょう。
つまり指導者が、皆と一緒にプラーナヤーマを行なうということは
指導者自身のレベルが試されることになるのです。
ですから真剣勝負そのものだと言えます。
それはプラーナヤーマ以外の技法も同じです。

2010年11月28日日曜日

茶室への径

今年は紅葉が綺麗ですね。
こちらのモミジも凄かったですよ!
次は、雪景色かな。

ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガ

サッド・グルは個々の状態に応じて
臨機応変に多様なアプローチを採ることができます。
そのサッド・グルの役割を密教的な技術によって代用しようとするならば
相当高度で複雑なメニューが必要とされるでしょう。

でも、どんなに密教ヨーガの技術を突き詰めていったとしても
そこには自ずと限界があります。
なぜなら、密教ヨーガと顕教ヨーガの質的な違いがあるからです。

ですから、密教ヨーガにサッド・グルの変わりなど、とても勤まりません。
せいぜい顕教ヨーガの準備段階として有効なだけです。

それでも、何もしないよりはいいだろうということで
数百年にわたり、密教ヨーガの偉大な先人たちは
ありとあらゆる角度から、開発と検証を繰り返しつつ
「顕教ヨーガの準備段階」としての役割を果たそうとしてきました。

そしてその答えが
今日に伝わる密教ヨーガの技術体系だといってよいでしょう。

ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの冒頭に於いて
著者であるスヴァートマーラーマは、
自信と誇りを持って次のように語っています。

「「ハタ・ヨーガは、高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)

しかしながら、その先人たちの努力は新たな問題を引き起こしました。
それは本来手段としてあるべきものが目的と化してしまったことで
人々に誤解を与え、彼らを迷路に誘ってしまったのです。
この思い込みは、実に長い年月にわたっているため
解除するのは容易ではありません。

そこであえて困難を承知の上で、
私はこの一連の流れのスタートライン、つまり顕教ヨーガに立ち還り
ヨーガスートラに直接向かい合うことに致しました。

「瞑想を行うために意識的にある態度、姿勢をとれば
それは精神の慰みもの、玩具になってしまう。(中略)

光明の瞬間には意識はしぼみ去っている。

それゆえ光明を経験しようとする意識的努力も、
光明についての記憶も過去の出来事についての言葉を残すだけであり
しかも言葉は決して事実起こったことと同一ではない。

時間を超越した啓示の瞬間には、窮極なるものは直接現れる。

しかし窮極なるものは
いかなる表象(シンボル)も持たず人格でも神格でもない。」
『クリシュナムルティの瞑想録』P78 クリシュナムルティ著 平河出版

密教ヨーガは、確かに数多くの技術を提供しています。
その意味では、大変有意義なものであり、素晴らしいというべきでしょう。

ですが、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーが著しているように
本来ラージャ・ヨーガへの準備段階でありながら
現実には、それを達成するのに数十年を要するような状況になっています。

でもそれではヨーガの本命とも言われる凝念(ダーラナ)以降の修行に
人生の晩年のごく僅かな時間しか充てられません。

なにか本末転倒しているような印象を受けるのは私だけでしょうか。

2010年11月27日土曜日

サッド・グル

私は、ウパニシャッドの時代、
サッド・グルの存在が、
後世のアーサナ等の肉体的鍛錬に期待された要素を
充分に満たしていた、と考えています。
よって当時は、アーサナ等の練習に時間を費やすことなく
すぐにプラーナヤーマに進めたのでしょう。

つまり顕教ヨーガはサッド・グルによって
生命を吹き込まれるものなのです。

しかしサッド・グルがいつも近くにいるとは限りません。
むしろいない方の確率が遥かに高いでしょう。
その場合、何かがサッド・グルの代わりを務めなくてはなりません。
そこで、誰もがある程度の効果を得られる技術
つまり密教ヨーガが開発されたと考えられます。

いわゆる密教(タントラ)が5~6世紀に最終段階に入りながら
密教ヨーガの技法が14世紀頃に体系化されてくるというタイムラグも
その傍証として考えて良いでしょう。

ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガなどは
密教ヨーガの代表的流派として、まさにその目的を果たす為の技術ですが
これらの成就にはグルの指導が不可欠だといわれています。

私はサッド・グルとグルの違いを次のように定義しています。

サッド・グルは、その存在それ自体を以って、真摯な修行者を真理へと導く。
グルは、様々な技術の指導を通して、修行者に真理への道程を指し示す。

つまりラーマナ・マハーリシやクリシュナムルティのようなサッド・グルには
アーサナ等は無用の長物なのです。

なぜなら、彼らの一瞥を受けるだけで
修行者の心身そして真我に大きな変化が起こるからです。

それは彼らが到達した境涯の高さを暗示するものですが
同時に「顕教ヨーガとは何か?」を現しています。

対して、段階的にアーサナなどの技術を指導することで
弟子たちを導くのがグルの役目ですので、
サッド・グルとは質的に大きな隔たりがあります。

20世紀を代表する聖者の一人、
ラーマナ・マハーリシ師の見解は次の通りです。
(以下引用はすべて「あるがままに」ナチュラルスピリット刊)

「アーサナは安定した坐りをつくるためにある。
真我以外のどこに、
どのように揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?
これこそが真のアーサナである。」(P263)

彼は、
「ハタ・ヨーガをしないかぎり
心を静めることができない者たちにとって
それは役に立つといえよう。」(P263)
としてハタ・ヨーガが必須であるという考え方を否定しています。

ですから、彼の説くアーサナとは単なる身体の使い方ではなく
遥かに深い意味を持った「境涯」を意味しています。

「全世界がその上に揺るぎなくおさまっている土台(アーサナ)
それが真我である。
それは真の知識の空間、輝かしい基盤。
この知識から逸脱することのない安定を達成すること
それが、優れたサマーディのためのアーサナである。」(P263)

2010年11月26日金曜日

ハタ・ヨーガ・プラディーピガー

今日ヨーガというと、
肉体的鍛錬である程度の成果をあげてから
メディテーションへと進むように考えられていますが
これは多分に
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの記述による所が大きいと思います。
「ハタ・ヨーガは、
高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)
しかしながら
ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの書かれた時代は
ヨーガスートラ(紀元5世紀頃)から遥かに後世(16-17世紀)なのです。

もしもハタ・ヨーガにおけるアーサナ等の技術が
ヨーガ完成に必要不可欠なものだとするならば
1000年以上もの間、ヨーガを完成することは不可能だったことになります。
実際には、ヨーガスートラ自体
それ以前のサンキャ・ヨーガ派の
600-700年間にわたる功績の集大成なのですから、
隔たりとしては都合1600年以上になるわけです。

ハタ・ヨーガの開発者として知られるゴーラクシャ・ナータにしても、
13世紀の人ですから、そこには1200年を超える空白期間があります。

ということは、
このような密教ヨーガの厳しい肉体的鍛錬がなくとも
長年にわたって、ヨーガは本来の目的を果たしていた
と考えるべきではないでしょうか。

だとすれば、あのような肉体的鍛錬なくして、
いかにしてサマディに至ることができたのか?
そして、なぜハタ・ヨーガのような密教系ヨーガが求められたのか?

この二つの疑問について何らかの答えを出さなくてはなりません。

2010年11月25日木曜日

ヨーガスートラ


ヨーガスートラの時代には、アーサナとは安定を得るためのものであり
現代に伝わるような技法はほとんど行なわれていませんでした。

「坐り方は、安定した、快適なものでなければならない」
(ヨーガスートラ2-46)
「そのような坐り方は、緊張をゆるめ、
こころを無辺なものへと合一させることによって得られる」(2-47)
「その時、行者はもはや寒熱、苦楽、毀誉、褒貶の
相対的状況によって悩まされることはない。」(2-48)

ヨーガスートラに於いて
8部門の説明をする段での「坐法(アーサナ)」に関する記述はこれだけです。
アーサナ(体位)に拘るハタ・ヨーガ・プラディーピガーとは対照的です。
それはつまり、ヨーガスートラの時代、
あのような体位群が特に必要とされていなかったことを示唆しています。

ですから佐保田博士も翻訳に際して、同じアーサナという語に
ヨーガスートラでは坐法、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーでは体位と
別の訳語を充てられたのだと思います。

ヨーガスートラの流儀に於いては、いくつかの坐法はあっても
それらは積極的にチャクラやクンダリーニに対して
その活性化を促すものではありませんでした。
佐保田博士の分類によれば、顕教ヨーガということですが
肉体的鍛錬ではなく、メディテーション中心の穏やかな方法であったことは
様々な文献などからも容易に推測できるところです。

2010年11月24日水曜日

推薦本

「何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
生前、佐保田鶴治博士は
ラーマナ・マハーリシと道元をとても高く評価しておられたそうです。

道元の説く身心脱落はまさにヨーガスートラの世界そのものですし
ラーマナ・マハーリシの言行録は、クリシュナムルティと共に
ヨーガを学ぶ際にすばらしい参考書となることでしょう。

ヨーガを理解するのに参考になる本がありますか?、とよく聞かれますが、
私は次の書物を推薦しています。

ラーマナ・マハーリシ・・「あるがままに」「不滅の意識」
クリシュナムルティ・・・「クリシュナムルティの瞑想録」
ヘルマン・ヘッセ・・・・「シッダールタ」(新潮文庫)

ヨーガスートラやウパニシャッドを読む際には
これらを参考にされるとよろしいかと思います。

2010年11月22日月曜日

大和と明日香

この度はたくさんの方々に参加して頂きありがとうございました。
古代史と瞑想の旅、楽しんで頂けましたでしょうか?
結構歩きましたが、とても気持ちがよかったですね。
紅葉も綺麗でしたし、私的には充実した2日間でした。

2010年11月19日金曜日

自衛隊音楽まつり

今夜は、小野田寛郎先生に夕食をご馳走になりました。
美味しい中華料理を戴きながら、先生の貴重なお話を伺うことが出来
とても楽しいひと時を過ごせました。
そして、お迎えの車に同乗し、一路、武道館へ。
日米安保改定50周年記念のスペシャル・セレモニーを兼ねた
「自衛隊音楽まつり」を鑑賞して来ました。
航空幕僚長のご招待でしたので、前から2列目という上席でした。
今回で2度目ですが、あの迫力にはいつも圧倒されます。


オープニングの第1曲目は「ハトと少年」でした。
最前列に鳩山前総理御夫妻が居られましたが、そのせいでしょうか(笑)
それと、防衛大臣は拝見しましたが、
さすがに官房長官は来ていませんでしたね。

2010年11月18日木曜日

顕教ヨーガの瞑想

巷間、瞑想法といわれるものが数多くあります。
伝統的なもの、適当に自分で開発したものなど、それこそ雑多ですが
いずれにしても
小手先の所作や作為が多ければ多いほど
顕教ヨーガの本質からかけ離れたものであることを知るべきでしょう。

形式に囚われたり、観想遊戯に陥ってしまっては
サマディなど夢のまた夢です。

真我が無形である以上
サマディへのアプローチも無形でなければなりません。

作為にまみれた瞑想法では
存在の深みに触れることは出来ないのです。

単に社会で役立つ能力をつけるためなら
複雑な瞑想法や呼吸法でも役立つことがあるでしょう。
その可能性は自分でも確認していますので否定はしません。

でもサマディは、心の作用が止滅した先にあるのです。
心や身体を懸命に動かすことによってサマディに至れると考えるようでは
永遠にサマディには手が届かないでしょう。

ヨーガスートラやウパニシャッドの各段階は
単なるイメージの世界ではありません。
ヨーガがヨーガであるために、
今その真実が問われるべきだと思います

2010年11月17日水曜日

紅葉-5

直会は京風会席料理で。
純米山廃の美酒も堪能しました。
四条中納言山蔭流嫡流皆伝の腕前は
まさに流石の一言です。
鮮度抜群の素材の良さがさらに輝きます!

紅葉-4

こちらには毎年来ていますが
今年も期待を裏切られませんでした。
平日なので人出も少なく、落ち着いた時間を過ごせました。
日本には四季折々の美しさがありますね。

紅葉-3

公園の片隅の風景です。
何ともいえない美しさでした。

紅葉-2

本当に最高でした。
モミジが真っ紅に染まり、色鮮やかでした!
写真で見るよりも、実物はもっと美景でしたよ。

紅葉

秋は紅葉ということで、少し遠出を。。。

2010年11月15日月曜日

疑問を持ち続けること


「大切なのは、疑問を持ち続けることだ」
アインシュタイン

いつも思うのですが
他に依存して、さしたる疑問を持たずに生きるのでは
なかなか人間は成長できないと思います。

様々な事柄に対して疑問を持ち、物事を深く考えるとともに
その本質を洞察する力を養うことが、
自分自身を磨くことに繋がると思います。

2010年11月13日土曜日

ダ・ヴィンチの手記

「河をゆく水は 
過ぎ去る最後の水であり 
また、来るべき最初の水である。 
この世の時も、また同じである。」
「ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯」

かなり前になりますが、
NHKの番組でダ・ヴィンチの生涯を描いたドラマを観ました。
ずっと探していたのですが、過日、DVD全3巻を手に入れました。
結構よく作られたドラマです。

天才の名をほしいままにしたダ・ヴィンチですが
ご存知の通り、芸術以外の分野でもその才能を発揮しました。
彼の書いた文献が残っていますので、一度読まれるといいと思います。
岩波文庫の「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」上下2巻です。
彼の思想の一端を知ることが出来るでしょう。
「運動は一切の生命の源である。」
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」上巻

2010年11月11日木曜日

ヨーギとしての達磨


大悟された禅の老師で
信仰によって大悟すると説いた方はいたでしょうか?
達磨大師は仏像に向かって坐禅を組み、
読経や儀式によって大悟されたのでしょうか?
達磨は恐らく当時最も釈迦個人の教えに近かった方だと思います。
それは皇帝との問答や少林寺での修行などを見ればよくわかりますが
果して後世の禅宗は達磨の教えを純粋に受け継いでいるでしょうか。
釈迦の教えの真髄は、いつしか表舞台から消えてゆきましたが
残された数少ない文献からある程度真実が明らかになっています。
スッタニパータなどの初期の原始仏典で、
釈迦がなにを語ったのか?
そこに仏教本来の真髄があるといっても過言ではありません。
達磨が伝えたとされるのは、易筋経、洗髄経と坐禅です。
達磨については架空の人物だという説も有力でしたが
99年9月16日の朝日新聞に出ていたように
河南省で石碑と墓塔が見つかった事によって、再度議論対象となってきました。
仮に実在していたとするならば
達磨こそ理想的なヨーギの一人だったといえるでしょう。
そして釈迦の教えにもっとも忠実な修行者だったと想われます。

2010年11月9日火曜日

一期一会


輪廻転生、よく耳にしますが
本当は、いわゆる生まれ変わりなどありません。
何度も何度も生まれ変わってやり直せると想わない方が賢明です。

ラーマナ・マハーリシは
「輪廻転生は真実でしょうか?」という質問に対して
次のように答えています。

『無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。
本当は、輪廻転生などまったく存在しない。
いまも、いままでも、そしてこれからも。
これが真理である。』
「あるがままに」ナチュラルスピリット

一度しかない「生」の尊さを自覚しながら、毎日を過ごすからこそ
今のこの瞬間が掛け替えのないものになるのです。

一瞬一瞬を充実して生きること。
それは人間に与えられた素晴らしいチャンスなのです。

2010年11月8日月曜日

死との融合

『彼女は死んだのではない。真我と融合したのだ。』
「ラマナ・マハルシの伝記」ナチュラルスピリット社

この本には、ラーマナの日常的なエピソードが書かれています。
私的には、母親の死を見守る時の姿が印象的でした。
彼女が帰幽した時、側に付き添っていた彼は
すぐに晴れやかな表情で立ち上がり
「さあ、食事にしよう」と言いました。

亡くなる直前まで、彼はずっと
右手を彼女のハートに、左手を彼女の頭に置いていましたが
一時の延命など、まったく関心はありませんでした。
彼女の真我が神我と融合すること。
それだけが、唯一の願いだったのです。
見送る、こと。見届ける、こと。それだけだったのです。

『プラーナ(生気)はハートに吸収され魂は遂に
微細な鞘をすべて脱ぎ捨てて
ふたたび無知に戻ることのない最終目標地、
解脱の至高の平安に到達したのだ。』
「ラマナ・マハルシの伝記」

サマディに入るということは
ある意味「死を体験すること」と言ってもいいでしょう。

自分が死んだらどうなるのか?
それを自ら覚ることで、生と死の真の意味を知ることができます。
そうすれば、死に対する怖れなど消えてゆきます。
そして同時に、本質的な意味で、
生きることの素晴らしさに気づきます。
「どこから来てどこへ行くのか?」
「魂の故郷(本源)へ還る」

昔からよく言われる言葉です。
ですが死に際して、
元いたところ(本源)に還れるとはかぎりません。
むしろ、還れない確率の方が圧倒的に高いと想われます。
なぜなら、人間は生きていた時に行けた所までしか
死後行くことができないからです。

もしも、本源に還ることを望むならば
生前にサマディを体験しておく必要があります。
「別に本源云々などどうでもいい」というのであれば
何も考えなくて良いのですが。。。

2010年11月6日土曜日

クリシュナムルティ


明日の講座は、いつものように
クリシュナムルティの本を読んであれこれとコメントするのではなく
幾つかのテーマを集中的に考察したいと思います。
もしお持ちでしたら
「英和対訳 変化への挑戦、クリシュナムルティの生涯と教え」を
お持ちになられてください。
中の数ページを資料として用意しますので
お持ちでない方は結構ですが、DVDもついていますので
興味のある方は、この機会に求められるのもいいかと思います。
「50年間、世界を旅しつつ、彼は教え、講話を行ってきた。
なのになぜ一人も変容を遂げなかったのだろう?
彼はこの問題、というよりはむしろ事態に深く関心を寄せました。」
同書P87
今回は、その理由をまず最初に考察したいと思います。

2010年11月5日金曜日

道を究める

特に密教ヨーガにいえることですが
たくさんの技術を集めることで
あたかもヨーガが上達しマスターしたかのように
誤解する人が少なくありません。
でも、ちょっと考えてください。
技術の収集は、たしかに「知識と情報の幅」を広くします。
しかし、もしも「理解の深さ」が伴わなければ
それは、薄っぺらいものでしかありません。
では、理解を深めるにはどうすれば、いいいでしょうか?
それには、各技法の原理や構図について
確かな体験を伴った正しい「悟」が必要なのです。
(脚注)
「悟」とは、
「経験的事実を論理的に理解する」ことを意味します。

2010年11月4日木曜日

自我に勝る価値観

「無形の魄である『エゴ、我』は顕教ヨーガの邪魔になるが
自我より大切なもの、自我に勝る価値観を持っていれば
顕教ヨーガの妨げにはならないということをおっしゃっていましたが、
この「自我より大切なもの」『自我に勝る価値観』とは
どのようなものなのでしょうか?」
マスタークラスの方から上記のような質問を頂きました。
密教ヨーガは、ボディとマインドがターゲットなので
必然的に、有形の魄(肉体)と無形の魄(想念)が強くなります。
有形の魄が強くなるのは、肉体の強化になるので問題はありません。
しかし無形の魄が強くなりすぎますと、これは真我の離脱を妨げます。
なぜなら無形の魄は、元々肉体と真我を結びつける要素の一つだからです。
結びつける力が強くなりすぎれば、
当然離脱にも、ネガティブな結果をもたらします。
つまり密教ヨーガのやりすぎは、真我の離脱にマイナスなのです。
しかしながら、
チベット密教が言うように
常に顕教が密教に先んずれば、やや様相が変わります。
その上、さらに、
自我より大切なもの、自我に勝る価値観があれば
自我の独走を抑制します。
そして、それは同時に真我の離脱にもプラスに働くのです。
そこで私は、
自我に勝る価値観について整理してみました。
その答えの幾つかは下記の通りです。
・信仰なき敬神の念
・依存なき師(グル)への信頼
・天命または天意
・惟神(かむながら)
ただ、天命、天意と惟神には、
受動態であってもいいですが、サマディの経験が必要です。
(通常、能動態としての離脱は、受動態の経験後になりますので
とくに矛盾はしません)

2010年11月3日水曜日

ハイブリッド・カー

過日、新幹線の車内に置いてある雑誌WEDGEを手に取りましたら
冒頭にとても興味深い記事が出ていました。

ハイブリッド・カー(HEV)は、
一般に環境に優しいエコカーだということになっていますが
同時に、深刻な環境破壊の原因にもなっているという話です。

最近はどうしても温暖化ガスに多くの注意が向いていますが
言うまでもなく、環境破壊は温暖化ばかりではないのです。

現在日本メーカーはHEV生産に不可欠な希土類磁石を作る為に
その原料となるディスプロシウムやテルビウムなどの元素を
100%近く中国から輸入していますが、
問題は、その採掘現場にあります。

そこで今何が行なわれているのか?
それを知ってから、HEVを購入しても遅くはないと思います。

前述の希土類精鉱ですが
採掘現場に直接大量の硫酸をかけて、浸出採取しているのです。
例えば、1000トンの鉱石から取れる希土類元素はわずか2トン。
つまり998トンの汚染土砂は、再処理もされずに
そのまま河に廃棄されています。
また、このようなケースだけでなく、工場排水や大気汚染等々により
昨今の河川の水質環境は、驚くほど悪化しています。

06年版の「中国環境状況広報」によれば
中国の7大水系(黄河、揚子江等)の全流域の計408箇所で検査したところ
全体の54%の水質が汚染されており、さらに深刻なのは
その5段階の審査区分にも入れられないほど重症と判断された「枠外」が
全体の26%もあった、というから驚きです。

昔日本でも光化学スモッグが大問題になっていましたが
中国では、都市部だけでも04年に35万8千人の人達が
大気汚染が原因で命を落としています。(P35)
これでは大規模な戦争並みの死者数です。

確かに
北京などいつも「もや」がかかっているようで遠くがよく見えないのですが、
当初はあれが大気汚染によるものだとは想いませんでした。
例えば「南方週末」誌によると
2007年12月だけでも「もや」は22日間に及びその日は
多くの人が呼吸困難、咳、めまい、倦怠感、吐き気イライラ感に襲われ、
病院に診察に訪れる患者も急増したとの事です。

記事(P36)では、「大気や海水の流れを見れば明らか」ということで
中国大陸からの越境汚染が日本を襲うと警鐘を鳴らしていますが
黄砂や酸性雨などのように、空気と水が、
国境を越えて繋がっていることを改めて考えさせられます。
中国を「世界の工場」そして「巨大市場」にした先進諸国は
それがもたらした深刻な環境破壊について、正しく認識すると共に
改善に向けた責任ある対応を、早急にとるべきだと思います。

環境問題については、ウソ、ホント、いろいろな意見がありますが
エコロジーを心掛けた結果、逆に環境を破壊していたとしたら
なんとも複雑な気分になりますね。
最近、日中問題の険悪化が話題ですが
実は、年初からレアアースの輸出制限は始まっていたそうです。
輸出制限に対する批判もいいですが、
同時に、生産には現地での環境破壊が伴うことも
忘れてはならないと思います。

『エコロジー運動』とは
「人間も生態系の一部であるという観点から、
自然環境と共生する生活や社会を構築することを
目指した運動のことを指しています。
自然保護や公害防止はもとより,
広く食品安全やリサイクル運動省エネ・省資源活動なども含みます。 」
(財団法人九州環境管理協会 環境関連用語より )

2010年11月2日火曜日

自我の終焉

ヨーガを続けるとエゴが強くなる
これは彼方此方でしばしば聞く言葉です。
確かに、そう思えるケースも少なくありません。
ただどちらかと言えば、
密教ヨーガの世界に顕著な気がします。
ヨーガ歴が長く、アーサナは上手いのに
瞑想が全然駄目な場合、
さらに新たな技術に頼るよりも
その前に内省をすべきだと思います。
クリシュナムルティも「自我の終焉」を書いていますが
その辺りもひとつの検討課題なのです。

体質別の食餌法

にんにくは身体に良いとか、いろんなXXX健康法のような話が
古今東西、テレビや雑誌で盛んです。

結論を言えば、
全ての人に共通して必ず良い体質改善作用を及ぼす食材などは
まず無いと言っていいでしょう。
中国医学上の分類で、全ての性質に『平』の評価がつくものについては
体質に対する影響はありませんが、栄養価として有益だと解釈します。

全ての食材には独自の性質があります。
つまり、個々の食材は
個人の体質に何らかの影響を与えるものと考えられます。

それは体を温める性質であったり、逆に体を冷やす性質であったりと様々です。
細かく言うとキリがないので、中国医学では通常8種類に分類しています。

ですからマスコミに乗せられて、個々の食材を盲信し、食事を偏らせるのは
健康を考える場合、あまり誉められた話ではないのです。
あらゆる自然食材は、
そのほとんどがまだ成分的に解明されていないと考えた方がいいでしょう。
つまり個別に見た場合、
既知成分よりも未知成分の方が遥かに多い事を知るべきです。

例えばにんにくですが、
一部に制癌成分が確認されているから、それを以って即座に癌患者に良い
と断定するのは明らかに間違っています。
未知成分の中にその制癌成分を抑制する成分があるかもしれないし、
もしかしたら制癌成分より強い発癌成分があるかもしれないからです。
つまり人体実験ではありませんが、
実際に多数の例がなければ、然るべき判断など出来ないわけです。
それを操作定義上の判断といいます。
化学薬品であれば、成分的にはその100%が既知であるため、
効能に関しては、操作定義よりも概念定義が優先されています。
しかし自然物質は、逆に、未知成分の方が既知成分よりも多いため
概念定義よりも操作定義が優先されるべきなのです。
故に、食餌法については、私は
2000年以上にわたって検証されてきた中国医学上の学説を信頼しています。

2010年11月1日月曜日

無心にして真技

「技が至れば無心にしてまさに真技となる」 王老師

無形に至るにも、まず有形を極める以外に道はありません。
ですが、有形を意なくして行ずるならば
無形に至ることは出来ないでしょう。

「技が至る」為には弛まぬ修練が必要です。
そして一段一段踏みしめながら階段を上るが如く、
地道に功を練ってゆくしか方法はないのです。

ここで問題になるのは、「意」という言葉です。
私はこれを内観と行気に分けて考えています。
内観とは内的な観察と集中であり、
行気とはエネルギーの操作に他なりません。
これなくして功を練り上げるのは、まず無理だといってよいでしょう。

無形に至るとは、
まさに、この次元の話なのだと思います。
気流とでもいいましょうか、
自分のみならず相手のエネルギーの流れをも全て包含して、
無心の内に激しい流れを鎮めるべく捌いてゆくことが、
無形の技に至った段階なのでしょう。

そこでは何かの形・型に無理して嵌め込む作為などないのです。
まさに老子の説く無為そのものといえます。